五・一五事件には、弘前から陸軍士官学校士官候補生野村三郎が参加している。野村は、弘前市塩分町三四番地に明治四十四年一月一日、父與一、母みねの三男として生まれる。青森県立弘前中学校(現弘前高校)二年修了で、大正十四年四月一日東京陸軍幼年学校に入校、昭和三年三月同校を卒業し、四月一日陸軍士官学校予科入校、昭和五年三月卒業、士官候補生として歩兵第三一連隊(弘前)に入隊、同年十月一日本科生徒として陸軍士官学校に入校、五・一五事件参加のため昭和七年五月二十五日退校、六月十一日士官候補生を免ぜられた。
軍法会議の判決で禁錮四年に処せられ、昭和十一年六月一日出獄。その後陸軍省の後援で満州へ渡り、満州国軍に入り、中尉に任官、ロシア語が得意だったので、三江省佳木斯(チャムスク)特務機関に勤務して対露情報に当たり、間もなく関東軍の命令でドイツ大使館付として情報勤務に当たり、ポーランド、ルーマニアで活躍した。ドイツが敗れ、ルーマニアにもソ連軍が進攻してきたため、ソフィア大学の学生であったタチアナ・オブラプス夫人とともに脱出、日ソ開戦直前のシベリア鉄道で帰国した。敗戦後、夫人はNHKのロシア語放送をしたり、ロシア語教師をし、野村は貿易会社に勤務、平成六年七月二十三日死去した。事件で野村は内閣総理大臣官邸襲撃組に参加、犬養首相射殺の場に立ち会った。
軍法会議の模様は当時の新聞に出ており、野村の事実審理は昭和七年八月一日午前十時五十五分から始まった。肉親傍聴人として父・與一が許された。法務官が本件の原因動機について訊問したのに対し、野村は「十七世紀の覇者オランダはスペインと平和条約を結び、功利的軍縮実行と共に一時に没落してしまった。飜って日本の現状は私利私欲に汲々たる財閥、政党、是が日本の支配階級であります。彼らから叫ばれるものは平和論と経済論であり、国際主義の外交であります。ロンドン会議の結果はオランダと同じ轍を踏む。祖国は危い。」また、「国民精神は頽廃し、教育は紊乱、思想は悪化、マルクシズム、アメリカニズムは滔々と侵入、一は国体を破壊、一は刹那快楽主義、街頭に亡国哀調の流行歌に非ずんばエログロの乱舞、吾人をして一歩校内を出づる毎に切歯扼腕せしめる。政府財閥は内に勲賞事件、ドル買いあり文教の府の瀆職事件あり、世界は米・露・英は秘術を回らして日本打倒に狂奔しており、国家未曾有の難局は我らをして遂に起たしめ、前衛として捨て石として国家革新の直接行動に出でしめた」と縷々真情を吐露した。彼は遺書に軍人の死場所は戦場のみに限らぬと書き、爪を同封、現在の心境はという審問に、どこまでも初志を貫徹したいと思っておりますときっぱり答えた。