弘前へ帰る

244 ~ 245 / 965ページ
昭和十九年三月帰郷、五月東亜連盟青森支部の事務長となり、在職中の国策会社東亜通商を辞職、六月二十六日から県立弘前中学校に週三日出勤することとなった。東洋史・西洋史の授業を担当し、部活動では大陸班を指導した。

写真85 中国山西の前線での東奥日報社従軍記者:山崎元衛

 大陸班は、弘前中学校が戦時体制の国策に沿うべく、校友会を改組して報国団とした昭和十六年五月に文化部の中に誕生した。指導者は佐藤正三の先輩で東亜連盟県支部長の鳴海理三郎だった。時代の申し子だったこの班は、綱領で「常ニ大日本帝国ノ国民タルヲ胸ニシテ八紘一宇ノ精神ニ生キ以テ我カ帝国ノ礎石タランコトヲ期スベシ」を掲げ、山野を跋渉して浩然の気を養い、座禅、討論、意見発表、大陸に在住する先輩との通信連絡を行った。昭和十九年、東亜連盟同志会の鳴海理三郎小田桐孫一佐藤正三らはいずれも弘前中学校の教師となったが、やがて小田桐も鳴海も召集となり、佐藤にも再度の召集がかかったが、身体検査で即日帰郷となり、二十年八月の終戦時の大陸班指導者は彼一人だった。授業は第三学年の歴史担当で、初回の講義は「欧洲における戦争の発達史」だった。小磯内閣が倒れて、後継内閣として鈴木貫太郎内閣が誕生しても、「期待する何ものもなし」と書いている。このころ、酵素農法の普及を図っていたが、養生会の活動も不活発となり、東亜連盟の活動も本部鶴岡の全国大会の雰囲気も、もの足りぬものとなっていた。そして、佐藤正三に決定的影響を与えていた伊東六十次郎に二十年五月十九日召集令状が来た。伊東は戦後シベリアに抑留され、昭和三十一年十二月二十六日ナホトカから最後の帰還船で舞鶴港に上陸した。伊東の留守の間、戦後民主主義の潮流に抗して佐藤の民族主義復興のための悲劇的苦闘が行われるのである。