指導者・石岡彦一

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農民組合の出した声明書によると、相馬村の一件は次の状況だった。小作人一三人、家族六十余人が不在地主に小作米五割減を要求した。ここでは平年作反当たり四俵の収穫、小作料は五割強の二俵一斗、ここ四年干魃(ばつ)で二俵弱の収穫しかないのに小作料はそのまま。借金を抱え、樺太への出稼ぎで生計を立てていた。ないものまで取り立てる地主に対して、農民組合に団結して小作料五割減を要求した。ところが、弘前警察署は、小作人男子が全員出稼ぎすきをねらって指導者石岡彦一(下湯口、労農党員)を三日間不当検束、続いて三上徳次郎柴田久次郎ら組合幹部を五日間検束して地主への屈服を迫り、居残りの女子供、老人連を脅かしたという。この争議は、一ヵ月後、一時的小作料の減額をもって解決した。昭和六年の弘前警察署扱い件数五件のうち三件は新和村だった。
 この昭和六年九月、石岡彦一全国農民組合本部へ次のような手紙を書いている。
青森県連合会下湯口支部準備会たる事 早や四年であるがいよいよ階級意識を持って我も我もと今最中署名捺印に廻り、後三、四日にて県議選挙とともに旗上げすることです。本支部は下湯口と悪戸と連合して清水支部となるのです。清水村の無産農民も今では自分の苦しい事と資本家、地主の為めに苦められつつある事に目はさめ、全農の支部でなければ吾々は闘争しても地主に勝たれないというので青年も老人も勇敢に戦ふ決意であります。
   青森県弘前市外清水村下湯口
          清水村準備会 石岡彦一
 全農本部御中
     一九三一・九・一五

 凶作地の農民は稗、粟、南瓜、ソバ、甚だしきはワラビの根、藁餅(わらもち)、河骨(こうほね)の根を常食とし、困窮家庭の児童たちは欠食のために甚だしき栄養不良に陥って教室に倒れ、口から出たのは青草だった。炉にかけていた秕(しいな)(くず米)と青菜の雑炊の鍋さえ盗まれた。

写真89 清水農民組合(昭和23年頃)(矢印が石岡彦一、最前列左端から三浦勝三郎・大沢久明・田村文雄・津川武一、二列目左端から二人目が大高勝次郎)