軍事色の払拭

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敗戦直後の全国各都市では、GHQの指令と新憲法の制定を受け、軍事施設の解体を実施しなければならなかった。弘前市もその例に漏れてはいない。そのため軍都弘前からの脱却をはかるためのさまざまな措置がとられた。真っ先に行われたのが防空施設の処分と撤去である。昭和二十年(一九四五)十月五日、市内に二〇〇ヵ所以上あった防空壕を撤去し、空襲対策用の貯水槽で、貯水池として存続させる価値のないものを撤去する議案が可決された。軍事施設は膨大に作られていたため、翌年の市会でも引き続き防空施設の撤去に関する議案が審議されている。
 第八師団を抱えていた弘前市にとって、軍事色の払拭は単に建物施設の解体にとどまらなかった。物資の少ない当時とはいえ、弘前や青森の軍事施設には膨大な数の武器や弾薬があった。これらは順次始末することが命じられたが、多くは海へ投棄された。戦時中、国民から根こそぎに資金や物資を集め、その費用で得られた大量の武器や弾薬も、なんら使われることなく海へ投棄された。もちろん使われなくてしかるべきものだが、軍需物資の大量投棄に従事させられた人々にとっては複雑な思いがあったに違いない。

写真104 投棄されるため弘前公園に集積された武器・弾薬

 軍事施設は単に解体されただけでなく、民需用に利用されたり払い下げられたりしている。昭和二十二年七月三十日、第五七師団野砲兵第五七連隊の衛兵所や営倉を、浮浪者の収容施設に一時使用する議案が提出された。復員兵の増大により市内は急激に人口が増え、多数の人々が就職難や食糧難で浮浪者となっていた。治安の悪化が問題となり、これらの軍事施設を民需施設として活用し、生活困窮者の救済施設としたわけである。
 第五七師団日中戦争期に増設された師団である。日中戦争が泥沼化した結果、全国各地の師団が中国や朝鮮など外地に出たこともあり、戦力増強を意図して師団が次々と増設された。昭和十五年(一九四〇)七月十日、第五一師団から第五七師団まで七つの師団が新設された。このうち第五七師団が、第八師団を母体として編成されたのである。
 七月三十日、第五七師団の被服倉庫を大蔵省から借り受け、弘前市立商業学校の移転校舎として一時使用する議案が出された。弘前公園内にあった第五七師団の火薬庫敷地を総合運動場として払い下げ申請する議案も出され、一ヵ月後の八月三十日可決された。その後も軍事施設の解体に伴い、市当局は払い下げを要請し続けた。昭和二十五年六月二日には、中津軽郡千年村長が歩兵第五二連隊敷地跡を村営市場敷地として貸付願いを出している。
 弘前市だけの例ではないが、折からの引揚げ者や復員兵の増大により、市内の人口は爆発的に増え、その多くが衣食住に不自由していた。市当局にとって、もっとも必要な対策は食糧対策の次に住宅供給だった。その住宅敷地として、広大な軍事施設が活用されたのである。軍事施設の民需活用の過程を見ると、市にある軍事施設がいかに巨大なものであったかがわかり、軍都弘前の一側面を見せつけられる。現在市内各地にはさまざまな施設があるが、重要な施設の多くは、軍都弘前時代の軍事施設のあった跡であることを記憶しておきたい。

写真105 第三中学校舎として使用された旧野砲兵第8連隊兵舎跡