戦前と戦後の相違は多々論じられるテーマだが、福祉という概念の普及は、戦後日本を象徴する重要な政策の一つであろう。福祉を含む社会保障制度は、戦後日本の社会制度上、非常に重要な位置を占めている。憲法第二五条で社会保障と社会福祉が基本的人権たる生存権として明記されていることにも明らかである。もちろんこれらの概念は戦前までの諸制度と無関係ではなく、その延長上に発展・拡大していった側面が強い。けれども公的扶助が地域の人々の好意で支えられていたように、これまで基本的には地域の人々によって保障されていた諸制度が、今度は国家予算を計上し、国策として保障するようになった点が、最大の変化であった。
福祉をはじめとする社会保障制度の概念が植え付けられた背景には、いうまでもなくGHQの占領政策があった。昭和二十一年(一九四六)二月二十七日、GHQ覚書(SCAPIN第七七五号)が発せられ、公的扶助に関する三つの重要な原則が指令された。保護の無差別平等、保護の国家責任の明確化、最低生活の保障がそれである。GHQの福祉関係を司ったのが、公衆衛生福祉局(Public Health and Welfare Section通称PHW)である。公衆衛生福祉局は地方に派遣された各師団に対して、管轄地域内の調査を命じ、福祉概念の普及に努めさせた。青森県に進駐した第八一師団の管下でも公衆衛生福祉局の指示を受けて、県下の福祉事業に関する調査と指導を行っている。
GHQの徹底した指導が正当性を付与されたのは、敗戦後の生活難が直接的な理由となっていたからである。とくに外地引揚者の生活困窮問題は、治安維持上からも対策が急がれており、全国各地で大きな社会問題となっていた。敗戦直後に治安当局が全国の特高警察に命じて民心の動向を調査させているが、その調査結果からも、多くの人々は国家のために戦ったという意識が強く、戦争指導者に対する怒りや日本政府への不信感を募らせている。大多数の国民にとって、戦争被害に対する補償や救済は公的に施されるべきもの、という意識が強かったのである。
昭和二十一年九月九日、生活保護法が公布され十月一日から施行された。外地に夫を残し子供を抱えて引き揚げてきた女性を典型に、男性が復員しておらず女性だけで子供を養う家庭は、敗戦後も困窮を来していた。当然こうした女性に職を与えることが緊急要務となっていたが、弘前市周辺には女性が働ける職場環境が少なく、多くの女性が生活保護を必要とする状態であった。弘前市内には柴田やすが経営する柴田職業指導所など、いくつかの授産場があった。だが全部合わせても一五〇人程度しか収容できず、二〇〇〇世帯ある女性失業者を収容できる状態ではなかった。そのため闇行商をする女性も多く、闇撲滅のためにも授産場の設置が要望されていた。
空襲による罹災で親を失った児童が激増したため、児童保護の必要性から戦災孤児の保護対策、浮浪児対策が浮上し、昭和二十一年には厚生省に児童局が設置され、翌年には児童福祉法が制定された。これを契機に傷痍軍人対策から障害者福祉、老人福祉、母子福祉など、今日にいう福祉事業が伸展するようになった。
この児童福祉を担う人々が、民生委員だった。戦前には方面委員の制度があったが、隣組制度に類する制度にGHQが批判的だったため、新たに民生委員が設置されたのである。民生委員は市町村長の補助機関として位置づけられた。児童福祉の担い手であり、精神病罹病者や災害罹災者などの要保護者と役所を結ぶ重要なパイプ役でもあった。不遇の人々の生活保護を目的として位置づけられたのである。
しかし生活保護法が日本国憲法制定前に成立したこともあり、保護を受けることが国民の権利という意識は非常に薄かった。そのため国民の間から保護の請求権が認められないなど、さまざまな批判が浮上した。戦争未亡人の生活援護と失業者の大量発生に対する生活援護問題に対応するため、昭和二十五年九月十三日、新生活保護法が制定された。これにより日本国憲法第二五条の理念に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に最低限度の生活を保障するとの条文が盛り込まれた。今日、福祉問題は行政の最重要施策の一つである。敗戦後の復興対策が福祉政策の導入に大きく寄与したことに、改めて注目しておきたい。