りんごの唄と空前のりんご景気

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敗戦後、うちひしがれていた人々を勇気づけた歌謡曲に『りんごの唄』(唄・並木路子)がある。作詞のサトーハチローは東京生まれであるが、祖父は弘前藩士族佐藤弥六(さとうやろく)で、明治初期のりんご栽培指導者の一人として知られる。戦争は、りんご園を壊滅寸前まで荒廃させたが、戦後は労働力が園地に戻り、空前の高値が生産者の生産意欲を刺激した。りんご農家の経営は史上最も潤い、生産の復興を加速させた。
 歌のみならず、りんごそのものも多くの人をひきつけた。戦後の飢餓状態の中で、甘いものに飢えた人々にりんごの甘味が大いに魅力を感じさせたからである。戦後の物価と配給の統制は、主食の米が中心で、りんごまで及ばなかったこともあり、りんごのヤミ取引が横行し、空前のりんご景気が現出した。戦後直後の納税者番付を見ると、それまでは中弘地区の多額納税者は、呉服商、地主、醸造業者が常連であったが、昭和二十年(一九四五)からは一転してりんご移出業者が上位を占めるようになった。例えば、昭和二十三年(一九四八)産のりんご生産額は九〇億六〇〇〇万円で、供出米の代金三二億円と比べると、約三倍の開きがあった。この時の県財政規模は二四億円程度であったから、りんごブームの過熱ぶりがわかる。
 りんご需要に応えるために、特に都市の消費地への輸送が求められ、貨車獲得の争奪戦が繰り広げられた。空前のりんご景気に高い収益を上げていた移出業者は、数万円のプレミアをつけ、全国から貨車を調達することも目立った。
 敗戦後の県財政は、激しいインフレの中で赤字を免れなかったが、空前のりんご景気に乗じ、昭和二十一年(一九四六)九月からりんご移出税(昭和二十二年に改称してりんご税)を一箱当たり四円徴収した。りんご税が県税に占める割合は巨額で、昭和二十一年は九%、昭和二十二年から二十四年にかけては二〇%から三〇%に上った。また、りんご関係市町村にも、りんご税に伴う附加税収入があったため、全国で最も早く立派な新制中学の校舎が建設された。しかし、りんご農家は、戦時中は不要不急の作物としてりんごの伐採を命じられ、戦後ようやく回復基調に乗ってきたときの増税であったので、りんご税徴収に反発した。昭和二十三年十月、弘前税務署前に農民を中心に数千人が集まり、「りんご税金反対、農民の自主申告を認めろ」の要求を掲げた示威行動が行われた(津川武一『りんごに思う』一九八五年)。そして、昭和二十四年産をもってりんご景気が崩壊したため、りんご税反対運動がさらに広がりを見せた。りんご税は二十五年に廃止され、津島文治知事は混乱の責任をとって辞職した。

写真124 中弘農民組合、税金闘争勝利後の観桜会

 昭和二十七年(一九五二)九月から十月にかけて、美空ひばり主演の映画りんご園の少女』の撮影が弘前市周辺や旧清水村常盤坂のセットで行われ、多くの観客が駆けつけた。映画もヒットし、青森りんごの大宣伝となった(前掲『新聞記事に見る青森県日記百年史』)。戦争直後、りんごはさまざまな形で青森、津軽の代名詞となり、大いに地域の人々を励ました特産物であった。