弘前女学校のキリスト教

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弘前女学校は昭和二十年八月十五日を劇的に迎えた。学校は、八月十五日付をもって強制撤去されることになっていた・八方手を尽くしても如何(いかん)ともしがたく、その日やむを得ず講堂への廊下を壊し始めた。それでも笹森順造理事長と成田孝治校長は、県庁に建物疎開の中止か延期の陳情に出かけた。校具は、市内取上の笹森理事長所有の畠小屋に、窓ガラスの果てまで格納した。
 以下は藤田恒男の回顧である。
いよいよ八月十五日早朝、笹森先生は県疎開本部へ撤去を取やめるようにと最後の交渉におもむいたのである。この日がまさに終戦の日である。そうとも知らず私は松森町にある桜庭駒五郎氏宅にこの件に関しておもむいたところ、御夫婦は身を白装束に清め、畳を上げて、ラジオを床の間に置き平身低頭していたのである。私はご夫婦のあまりの厳粛さに頭を上げているわけにいかず同様に土下座したのであった。私共はこうして天皇終戦のお言葉を聞いたのである。
しかしながらこのとき、私の脳裡に浮んだのは、これで弘前学院(ママ)が助かったという喜びであった。勿論庭さん御夫婦とも手をにぎりあって喜んだ。笹森先生といえばこの終戦の詔を青森駅頭で聞いたという。私どもは喜んでこの日を迎え入れた。

 弘前女学校では、翌二十一年春、新学期早々に一つの事件が起こった。成田校長夫妻の排斥運動である。「讃美歌と祈りの言葉のあとで、校長派と反対派が互いに壇上に立ち、自分達を弁護する演説をし、攻撃しあう有様は私たち一年生にとって唯おどろきであった。校友会とやらが主になったと云う人もいたがよく訳もわからないうちに成田校長夫妻は見えなくなり小田信士先生がお出になった。小田先生は一番初めに、神様に選ばれてこの学校にはいった皆さんをレディと認めて操行点を全員甲にしますといった。折角レディと扱って甲をくれるなら私達もそのようにふるまわなければなるまいと悲壮な決心をしたものだった」。
 これは一新入生の思い出である。成田事件は教育者が戦争協力の責任を内部からとらされた県下唯一の例である。弘前女学校の生徒は県内でいちばん早くスカートにセーラー服になって憧憬と羨望の目で見られたが、これは生徒自治会で決めたことだった。
 昭和二十二年九月、キャサリーン台風のさなか弘前へ赴任して来た宣教師ミス・ブランチ・ブリテンは、弘前の思い出を次のように書いている。
弘前学院の思い出はたくさんありますが、一番最初の思い出は特に忘れられません。突然朝の二時に弘前駅に着きました。台風のために電報がおくれ、出迎えてくれる人は誰もおりません。駅に働いていた二人の人が家まで送ってくれました。当時は外人といえばミス・バイラーのほかは誰もいませんでしたが、日本の皆様からは家族同様のように迎えてくれました。(中略)どのクラスでも、よく答えてくれるグループとよく答えられないグループとがありました。親切な同労(同僚)の先生方、バイブルクラスに来ていた他校の先生方など、なつかしく思い出されます。(中略)
時に弘前を思い出してホームシックになります。弘前は第二の故郷ですから。(中略)私の部屋にあるものはすべて弘前の思い出の種になるものばかりです。(中略)弘前および弘前学院は今もです。
(『弘前学院創立八十周年記念小誌』)