金賞に輝く合唱

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明治三十四年の開校から昭和の弘高女の時代まで、音楽担当として在職した教諭のほとんどは東京音楽学校(東京芸術大学の前身)の出身であった。こうした音楽教育の伝統は戦後の弘前中央高校にも引き継がれ、その頂点ともなったのが音楽クラブの活躍である。四十二年の全日本合唱コンクール青森県大会で優秀賞を得てから、その後の県大会での金賞、銀賞はもちろん、全国大会でも四十五年に銀賞を獲得、翌四十六年には念願の金賞に輝いて、青森県に弘前中央高校ありとその名声を全国に響かせた。高い水準の力量は弘前市民の関心を呼んで、市民会館での定期演奏会には毎年多数の聴衆を集め、その力強く美しいハーモニーは弘前市の秋の行事として定着したのであった。

写真201 弘前中央高校 昭和46年第24回全日本合唱コンクールで金賞

 これ以外の文科系部活動では、高校でその基礎を磨き、後に名を馳せることになる卒業生が多く輩出している。これは、生徒自身の才能もあるだろうが、部の指導者や顧問の存在にも影響されるのではないかと思われる。
 文芸部には、劇作家でもあった工藤達郎(筆名久藤達郎)教諭がいる。二十二年に部誌『すばる』が創刊され、その創作活動を通じて人、歌人、劇作家として名をなした者が多い。美術部では、盛忠七新藤正一郎小林澄雄などよき指導者が相次ぎ、部員には、その後女流画家として第一線で活躍することになる佐野ぬいや、男性では早世したが版画家の高木志朗らかいる。書道部では、佐藤雄一(号中隠)がいる。彼の優れた指導を受けた生徒には福士洋子(夕湖)、三上由枝(米澤小蘭)などがおり、佐藤の創設した「弘玄書道会」を継承している。
 一方、運動部については、まず陸上競技部が二十六年からの三連覇、三十四年からの五連覇、四十一年からの二連覇を成し遂げ、特に四十一年度は県下のすべての大会で負けを知らなかった。次いで、庭球部、排球部、水泳部等がたびたび県高校総体で一位となり、三十六年の第一四回大会では、二十四年の第二回大会以来二度目の総合優勝を飾っている。
 また、後年、アトランタ、シドニー、アテネと三大会連続で日本代表となり、オリンピックでメダル獲得の原動力となった斎藤春香を輩出したソフトボール部も伝統的に強く、新制高校発足直後に創設されて以来、数々の県・東北大会制覇を成し遂げたが、斎藤を擁した六十二年、六十三年も残念ながら念願の全国制覇はならなかった。しかし、一方で、新体操団体が五十七年から県内連覇を続けるなど、新たな伝統もまた培われている。