昭和二年(一九二六)の芥川龍之介の自殺は、昭和の時代の困難と混乱を予兆させる事件でもあった。文壇事情も葛西善蔵の死後、後退期に入った既成のリアリズムと台頭してきたプロレタリア文学、さらに、新感覚派から新心理派を含むモダニズムとが対立しながら並存するという、いわゆる〈三派鼎立(ていりつ)〉のまま、昭和の文学が展開することになる。
また、国際的な紛争はやがて日本を軍国化していくが、文学もまたその荒波をまともに受けた。本県の文壇も、もちろん例外ではなかった。
昭和五年(一九三〇)、「座標」(青森市)が刊行された。大正期の本県の文壇を席捲した「黎明」を発展的に解消し、新たな同人雑誌(資料近・現代2No.六五六)の創刊に尽力したのは淡谷悠蔵(前出)、竹内俊吉(たけうちしゅんきち)(明治三三-昭和六一 一九〇〇-一九八六 つがる市木造)らであった。竹内は後年代議士や県知事を長く務め、〈文人知事〉と呼ばれるほど青森県の文化の隆盛に力を尽くした政治家であったが、東奥日報社の記者時代にも文学には積極的な支援を惜しまなかった。「座標」創刊もその功績の一つである。
太宰治(明治四二-昭和二三 一九〇九-一九四八 五所川原市金木町)が大藤熊太のペンネームで「地主一代」を「座標」に掲載し、その当時から早くも注目されていた。周知のとおり太宰治は、日本はもとより国際的にも有名な作家の一人となった。
今官一は福士幸次郎の薫陶を受けた一人だが、「わらはど」で文学に開眼、昭和五年には井上靖らと「文学ABC」、太宰、小野正文(おのまさぶみ)(大正三- 一九一三- 弘前市)らとは九年に「青い花」を創刊している。三十一年七月『壁の花』で直木賞受賞(なお、同姓で両親が弘前市出身の今東光(こんとうこう)・日出海(ひでみ)の兄弟二人とも同賞を受賞)。