同博覧会への出品は津軽唐塗(からぬり)と漆器が青森県陸奥津軽の名で出され、津軽唐塗が有功賞牌を受賞している。以下、明治期に開催された万国博覧会の美術・工芸の出品を列挙すると、明治九年(一八七六)のフィラデルフィア万国博覧会には青海源兵衛(せいかいげんべえ)(明治元-明治四四 一八六八-一九一一)が津軽韓塗漆器等を出品し受賞、明治十一年(一八七八)パリ万国博覧会では青海源兵衛と小田切勇馬が津軽塗でそれぞれ賞状受賞。
写真264 青海派一門による「青海波塗月千鳥蒔絵長箱」(県重宝)
明治二十六年(一八九三)のシカゴ・コロンブス万国博覧会では、三上平次郎が漆器出品、明治三十三年(一九〇〇)のパリ万国博覧会では、野沢如洋(のざわじょよう)(慶応元-昭和一四 一八六五-一九三九)が日本画「夏山夕景」、木通蔓(あけびづる)細工などの工芸分野で石田庄司、三上平次郎らが出品、明治三十七年(一九〇四)のセントルイス万国博覧会では、青森県木通蔓細工組合が金賞、三上平次郎が銀賞他、中村甚吉、漆器樹産合資会社が出品となっている。このように万国博覧会への本県の参加状況は津軽塗や木通蔓細工等の工芸の分野がほとんどを占め、美術の分野ではパリ万国博覧会に出品した如洋ただ一人である。
一方、万国博覧会を規範として内国勧業博覧会が明治十年(一八七七)から明治三十六年(一九〇三)にかけて五回開催された。内国勧業博覧会は海外から移植した技術・情報を広く伝達し、国内勧業を勧奨するもので、万国博覧会と表裏一体の機能を果たすことになった。
本県では、明治十年の第一回、明治十四年の第二回の内国勧業博覧会には出品者がなく、明治二十三年(一八九〇)の第三回内国勧業博覧会に野沢三千治(如洋)、工藤文司(仙乙)(天保一〇-明治二八 一八三九-一八九五)、三上英二(仙年)(天保六-明治三三 一八三五-一九〇〇)、明治二十八年(一八九五)の第四回展には野沢三千治(妙技三等賞)、工藤仙乙(くどうせんおつ)が、明治三十六年の第五回展には野沢三千治(褒賞)が出品している。
また、明治十五年(一八八二)と明治十七年には、衰退した日本画展を振興させるための手段として、内国絵画共進会が開催された。内国絵画共進会は、農商務省を主催とし、県庁の勧業課を通して出品する方法をとっており、勧業政策の一環として、日本画を中心とする伝統絵画奨励の事業であった。内国絵画共進会は流派ごとに六区に分けられた。一区は大和絵(やまとえ)の系統、二区は狩野(かのう)派、三区は中国から伝わった北宗画(ほくそうが)、南宗画(なんそうが)の系統、四区は浮世絵系統、五区は円山(まるやま)派、六区はそのいずれにも属さないものに分類された。
青森からの出品は第二区狩野派に外崎鶴幼(とのさきかくよう)(繁一郎)(文政一一-明治三三 一八二八-一九〇〇)、第三区に原田金蔵、高屋旭高(常之進)、工藤仙乙、工藤誠意、山形太郎九郎、山之健吉、小山内健三郎、澤治信(青森市)、榊田彦蔵(弘化元-大正一二 一八四四-一九二三)、三上仙年、第六区に大井旭嶺(青森市)、須藤勝五郎の計一三人が出品している。このように三区が最も多く、江戸後期からの文人趣味とあいまって地方に普及した南画、文人画の勢力が大きく、また、この一三人の日本画家のうち、少なくとも一〇人が弘前の日本画家であることを考えると、明治十五年前後の本県の画壇の中心は弘前で、北宗画・南宗画が主流であったことがうかがい知れる。
また、中央における在野の動きとしては、日本青年絵画協会が、明治二十四年十月、岡倉天心(おかくらてんしん)(文久二-大正二 一八六二-一九一三 横浜)、寺崎廣業(てらさきこうぎょう)(慶応二-大正八 一八六六-一九一九 秋田県)らの青年作家十余人により結成される。日本青年絵画協会は毎年絵画共進会を開催した。本県からは明治二十七年第三回日本青年絵画共進会で如洋が三等褒状、翌年の第四回に如洋、鳥谷幡山(とやばんざん)(明治二九-昭和四一 一八九六-一九六六 七戸町)がそれぞれ三等褒状を受賞している。
明治二十九年三月に日本青年絵画協会は日本絵画協会と改称、同年九月洋画の白馬会と提携して第一回絵画共進会を開催する。翌三十年から明治三十六年まで毎年春秋の年二回の共進会を開催した。これには、野沢如洋、鳥谷幡山、対馬子龍、成田雲峯、高橋竹年(たかはしちくねん)(明治二〇-昭和四二 一八八七-一九六七)藤田義作、安田仙洋が出品している。
写真265 野沢如洋『大瀑(ばく)図』