三好元長(一に
長基に作る)は長輝の子、
筑前守と稱した。(阿波將裔記、三好家成立記)【高國黨との角逐】將軍義稙の阿波亡命後細川高國義晴を推して將軍たらしめたが、阿波の三好一黨再起の志深く、大永六年十二月政長等堺に上陸し、翌年三月澄元の遺子晴元、
足利義維を擁して、亦こゝに來り屯した。九月
元長堺を發して、高國黨の伊丹元扶を伊丹城に攻め、十一月轉じて高國と京師に戰ふたが、享祿元年正月和を議した。然るに此事は却つて晴元の疑惑を受くることゝなり、遂に阿波に歸國した。四年浦上村宗、畠山高國を援けて攝津侵入に當り晴元は屢々書を阿波在國中の
元長に寄せて救を求めた。是に於て二月
元長は堺に入つた。此時に當り高國堺を襲はんとし、三月其先鋒は淀川を越え缺郡中島に陣し晴元兵を出して之を擊ち、次いで四國の細川持隆兵を率ゐて、亦堺に來會し、其勢漸く振ふに至つた。斯くして東上した赤松氏と呼應して六月
元長は
天王寺及び木津に高國の軍を破り、之を攝津大物廣澤寺に自殺せしめた。而も諸將多く
元長を晴元に讒したので、
元長は畠山義英等と謀り、堺の南莊に據り、天文元年正月剃髮して
海雲(開雲)と號し、細川持隆に憑つて陳謝したが、【晴元との軋轢】晴元之を聽かず、持隆恚つて、三月阿波に歸つた。
元長深く晴元に含む所あつたが、偶々五月晴元、畠山義宣、等の木澤長政を飯盛城に攻むるを救はんとして援を
本願寺光教に求め、六月には一揆大擧して義宣を討ち、更らに
元長の陣所南莊を攻むるに及び、【
元長の慘敗】遂に慘敗して
顯本寺に入り、屠腹して悲愴な最後を遂げた。時に天文元年六月二十日、殉死するもの七十餘人に及んだ。(細川兩家記)此時堺の餠屋某、
元長平常の恩顧に酬いんとし、寺内に籠り、山門に登つて、敵の動靜を遠見してゐたが、大兵の迫まるに及び切腹し飛下りて死んだと云はれてゐる。(三好別記)法號を
南宗寺殿
海雲善室(
堺鑑中)又
海雲齋善室等慶禪門とも號した。(
大林和尚塔錄)深く
大林宗套に歸依し參禪の功を積んでゐる。
顯本寺は
海雲の位牌所で、(三好
義長書狀)同寺の墓表には、歸本
海雲善室大居士と銘してゐる。
第三圖版 三好海雲(元長)墓