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(四)三好政長

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 三好政長は長輝の弟持勝入道宗安の子で宗三と稱した。大永七年兄左衞門督と共に、堺より山崎に抵り、桂川を渡つて、武田元光と戰ひ、大に奮戰した。(細川兩家記)【筒井氏との角逐】天文年中大和筒井城主筒井喜藏兵を擧げ河内國木の本に陣するに當り、同國高屋城には三好笑岩あり、宗三は阿波、讃岐、伊豫、淡路等の諸軍に將として、堺の南鄕に陣し、伏兵を設けて敵を敗り、遂に敵將筒井喜藏を擊破した。(三好家成立記、阿州將裔記)是より先、永正十三年宗三堺に陣屋を構ヘた際、靈夢により、陣地の松樹の下より、【觀音像と將軍松】十一面觀世音の像を感得した。之は松の觀音と稱して傳承せられ、今善長寺の本尊となつて居る。又堂前の松樹に、宗三凱陣の後、敵の首級をかけ、酒宴を開いて士卒の勞を犒ひ其武威を祝し、將軍松と名けたと傳へてゐる。(善長寺緣起)善長寺は現在と其位置を異にし、其松も現存してゐない。天文十五年九月長慶、宗三は、遊佐長教と戰ふて克たず、【宗三と長慶の不和】終に和を講じた。元長の子長慶は亡父の仇敵として宗三と善からず、やがて兩者の不和となり、細川晴元宗三を援け、長慶は長教と結んで堺に會し、宗三五月三宅城に徙つた。六月長慶は十河一存と共に、晴元を三宅城に攻め、中嶋、江口の西を抑へて攻めたので、宗三支ふること能はず敗死した。(細川兩家記)享年四十二。(寬政重修諸家譜卷第百九十九)法號を捐館一峰宗三大居士といふ。(善長寺宗三位牌)善長寺の堂前に其墓碑がある。【宗三の風流】宗三紹鷗に從ふて茶湯を學び、其技を能くした。祕藏の茶器があつて、之を九十九髮といふ。(茶人系傳全集)
 
 其子に政勝、政康あり、政勝は右衞門大夫、因幡守と稱し、剃髮して爲三と號した。後織田信長に降り、復德川家康に仕へ、寬永八年十二月十日歿した。享年九十六。(寬政重修諸家譜卷第百九十九)【政勝と善長寺】神明町東二丁善長寺は、政勝の開基である。故を以て遺骨を此處に葬り、法號を善長寺殿前因州賢通爲三大居士と號し、(善長寺緣起、堺鑑中)堂前に其墓表を殘してゐる。