ビューア該当ページ

(七)安宅冬康

33 ~ 34 / 897ページ
 安宅冬康幼名は神太郞、攝津守と稱し、一舟軒と號した。(阿州將裔記)三好元長の三男で、長慶及び義賢(實休)の弟に當る。(阿州將裔記、三好家成立記、三好別記)永祿四年畠山高政、紀州根來の僧兵等を率ゐて、岸和田城を攻めた際冬康は同城を拒守した。翌五年三月實休は久米田に陣したが陣中に於て、夢に祖父之長喜雲)が父元長海雲)と同列で、
    草枯らす霜また今日の日に消て
         因果は此に廻來にけりとの和歌を詠ずるを見、翌朝之を弟冬康に遣した。【冬康の風流】冬康は之を讀直して實休に返した。乃ち
    因果とは遙か車の輪の假に
         廻くるも遠き三好野の原
 と。(三好家成立記)斯くして冬康は歌人としても其名聞え、「いにしへをしるせる文の跡もうしさらすはくたる世ともしらしを」との名吟を殘し、集外三十六歌仙の一人に列してゐる。(鑒定便覽)【冬康の參禪】又大林宗套に參禪して、禪要をも極めた。(大林和尚塔銘)是より先き、天文二十四(弘治元)年二月堺顯本寺に宛て、同寺は海雲の位牌所で、寄宿の事は、長慶及び之虎(實休)が免許せしめた上は、異議なき旨の安堵狀を與へて居る。(安宅冬康書狀)冬康後淡路の須本に居つて、安宅本家を繼いだが、永祿七年五月九日松永久秀の爲めに長慶に讒せられ、終に掩殺せられた。(細川兩家記)