圓二坊賢知は傳楠木正成の嫡孫、左馬頭正勝の子で、大和十津川に生れ、太郞左衞門正吉と稱した。(
慈光寺由緖書、
全堺詳志卷之上、泉州志卷之一)父正勝は元中九年戰敗れて千劍破(ちはや)城から十津川に遁竄した。(
慈光寺由緖書、南山巡狩錄)此時男子二人あり、長を太郞左衞門正吉、次を二郞左衞門正盛といひ、共に機を窺ふこと幾星霜、(
慈光寺由緖書)寬正元年の秋、將軍
足利義政、畠山尾張守政長をして、同族伊豫守義就を討たしめた際、義就は河内國嶽山城(大阪府南河内郡彼方村大字嬉にあり、一に金胎寺城ともいふ)に據り、十津川の和田、楠木等を招いた。【金胎寺城防守】楠木兄弟之に應じて金胎寺城に據り、軍威大に振ふた。政長寬弘寺に陣して之を攻めたが、城兵死守し、政長の兵利を失ふた。事京師に聞こえ、援軍として山名是豐、畠山成之、武田信賢等五萬餘騎を以て、更らに之を包圍したが、功なく寬正三年寄手の諸將等、寬弘寺に軍議し、其糧道を絶つた。義就玆に於て四月竊に城を脱して
高野山に入つたが、(
慈光寺由緖書、新撰長祿寬正記)正吉は屈せずして、出でなかつた。然るに河内觀心寺中院の僧俊覺來り諭し、遁れて機を窺はしめた。【觀心寺潛匿】正吉卽ち觀心寺の中院に潛匿すること十年、一日靈告によつて寺を出で、和泉國丹下庄に赴き、堺
眞宗寺の第五世
樫木屋道顯に會し、眞宗念佛の法義を聞き、且つ道顯邸に於て、【
蓮如に歸依】
本願寺第八世
蓮如に謁して剃髮し、
圓二坊の法號を授けられた。斯くして文明五年
慈光寺を創立し、
蓮如の教化を助け、
泉南の宗門大に興張した。永正三年正月二十二日八十歳を以て入滅した。寺傳にいふ、遷化の年、異朝の畫工來朝して同寺に詣り、
圓二坊の影像を描いた。現存する
圓二坊の畫像は卽ちこれであると。
一子あり、觀心寺隱栖中に出家し、洛南東寺に抵り、賢周と號して眞言に歸したが、
慈光寺に歸つて
蓮如に歸依し、【
圓淨】
圓淨と改號して、同寺の法燈を襲ぎ、其第二世となつた。
圓二坊の志を繼ぎ、紺屋を糾合して宗門に歸せしめ、天文元年正月二十一日示寂した。(
慈光寺由緖書)
第十二圖版 楠木正吉(圓二坊賢知)畫像