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(五四)雲英宗偉

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 宗偉、字は雲英、乍住と號した。(紫巖譜略)堺、【谷宗臨の男】谷善三郞安光(呼雲齎宗臨居士)の二男、長左衞門時安(放牛齋宗卓居士)の弟で、僊嶽宗洞の家姪である。(谷氏系圖)幼にして出家し、僊嶽に就いて剃髮得度した。大德寺に入り參禪數年、三十三歳の時、終に法を僊嶽に嗣いだ。(僊嶽雲英兩和尚畫像裏書)慶長二年三月勅請により、【大德寺出世】大德寺の第百四十一世となつた。(紫巖譜略)南宗寺の第九世で、(南宗寺歷世年譜)堺に還つて海眼庵に住した。(龍寶山大德禪寺世譜)天正中筑前の崇福寺兵火に罹り、再興の機運を得ず、慶長六年春、春屋宗園命じて、筑前國主黑田長政に告げて、同寺の再興を請ふた。長政之を諾し、【崇福寺中興】筥崎松原に橫嶽山崇福禪寺を再建し、雲英を請して住持たらしめ、立てゝ中興の祖(七十八世)とした。(龍寶山祖師傳卷五、傳嶽、雲英兩和尚畫像裏書、龍寶山大德禪寺世譜、石城志)同八年十月四日、世齡四十四歳を以て紫野に入寂した。辭世の偈に曰ふ「虛空覔末後句、和聲踏飜、唯余一喝、魔神喪魂。」と。遺骸を大僊院大聖國師(古嶽宗亘)塔の側に葬つた。(紫巖譜略、龍寶山祖師傳卷五、龍寶山大德禪寺世譜、僊嶽雲英兩和尚畫像裏書)