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(八八)千 道安

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 千道安千利休の嫡男、始めの名は紹安、眠翁と號した。【茶道を父に受く】茶湯を父に受けて妙手と稱せられた。春屋宗園に參禪し(茶人系傳全集)豐臣秀吉に仕へた。(山上宗二記)後、父の罪に連坐して配流せられたが、赦されて京に歸つた。常に蹇の病あるを以て家を繼がなかつた。道安好みの茶室は、其蹇を隱さんためのもので、後世の範とすべきものではない。(茶事談)慶長十二年二月十七日歿し、大德寺の塔頭聚光院に葬つた。法號を眠翁道徹居士といふ。(茶家系譜詳本)南宗寺の墓地に其供養碑がある。

第三十一圖版 千吉兵衞書狀

 
 
 【機才】道安性敏捷にして機才あり、曾て父を茶湯に招待した際に露地の蔭に人を置き、利休の批評はいかゞと、之を窺はしめた。一日利休が、露地を越えて、此石は二步引けばよいとつぶやいたのを、隱し置いた人から聞いて、次ぎの日には其石を二步程引いて置いたのには、利休も其敏捷さに感じたといふことである。(喫茶指掌編三)又春の末道安方へ利休が蒲生氏鄕、細川三齋、柴山小兵衞等を茶會に招いた。其前日利休が明日の用意は如何にと、道安の宅へ行つたが、恰も留守であつた。數寄屋に入つて見ると、爐中綺麗に繕ひ、萬事整頓して居るのを見て、其平生用意の周到であつたのに感心したといふ。(茶人言行錄)江村專齋の老人雜談によると、道安の茶室に茶の湯する時は、いつも鶴の一聲といふ花入に花を生けて、床の間には軸も掛けず、五年も六年も其通りであつた。專齋其理由を糺して見ると、道安は僞物僞作の多い今の世には、掛物をかけぬが、却つて宜からうと答へたといふ。(老人雜話)どこかに異なつた性格の人であるやうに窺はれる。