納屋助左衞門は堺の豪族で、貿易商人である。納屋は菜屋又は魚屋に作る。一族堺に蟠居した。(開口神社文書、築地修理人名帳)足利氏の中葉以降、海岸に納屋を有し、之を貸與して所得とし、上分の者と稱せられた。【納屋衆の一人】所謂納屋衆の一人であらう。(絲亂記)助左衞門文祿二年小琉球卽ち呂宋へ渡航し、翌年七月歸朝し、當時堺の代官であつた、石田杢助を介して、豐臣秀吉へ傘、蠟燭、生ける麝香獸二疋を獻じ、且つ眞壺五十個を進覽した。秀吉大に喜んで、大阪城西の丸の廣間に陳列し、利休等とも計つて、之を上中下の三級に區分し、各々其價格を附して、之を希望者に頒つたが、槪ね五六日にして盡き、猶ほ殘品三個をも買上げられたといふ。(太閣記十六)當時茶湯の流行に伴ひ、人々珍奇なる茶器を藏するを以て誇りとし、高麗の茶碗、呂宋の壺等は、其最も珍重するところであつた。【貿易の利】助左衞門一たび之を齎し還つて一擧にして巨利を博したのは、當時の時好に投じたとはいへ、斯かる貴重なる眞壺を多數に將來したのは、一面商才の非凡なるを示すものである。【秀吉の忌諱に觸る】然し、後秀吉の忌諱に觸れ、一家沒落したが、期に先だち、居宅を大安寺に寄進して、冥福を祈り、(大安寺之記)飄然として故山を辭し、柬埔寨國に渡航して國王の信任を得、慶長十二年本邦渡航貿易商人の監理となつた。(朱印船貿易史所引泰長院文書)秀吉の忌諱に觸れた眞因は、未だ明かではないが、其生活奢侈を極め、居室には七寶を鏤め、庭園には珍卉を植ゑ、一代の名工狩野永德をして其丹青の技を恣にせしめたるが如き豪奢振が(堺鑑中)累を及ぼしたものであらう。曾て松永久秀其邸に莅み、刀を執つて柱を傷け、盈つれば虧くる災生ずとて、助左衞門を戒めたといふ。(大安寺之記)傳ふるところ未だ俄に信ずべきではないが、平常生活の一面を示すものであらう。但し奇傑呂宋助左衞門の通名を得た事蹟も、惜いかな史料の存するもの殆どなく、其全生涯は充分知られない。