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(一三)喜多見勝忠

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 喜多見勝忠は五郞左衞門といひ、若狹守と稱した。【畠山重忠の後裔】祖先は畠山重忠に出で、世々江戸に住し、故を以て江戸氏を稱し、後同國喜多見鄕に遷り、(明暗雙々集卷之九(華林宗珍居士碑銘幷序))喜多見と改めた。【北條氏の舊臣】【戰功】始め北條氏に仕へ、氏政沒落の後、天正十八年德川家康關東入國の際、召されて家人に列し、同十九年陸奧九戸一揆の亂には岩手澤まで出征し、又文祿元年肥前名護屋の陣營に隨ひ、慶長五年關ヶ原の役及び同十九年大阪陣に從軍した。翌夏の役には、石川主殿頭忠總に屬し、攝津高槻の城番を勤めた。元和二年近江の郡代となり、攝津國内に釆地五百石を加增せられ、千石を領した。【堺政所職】後攝津の郡代に轉じ、同四年堺政所職となり、攝、河、泉三國の奉行を兼ね、又同七年には河内、武藏兩國の内で釆邑千石を加增せられた。【秀忠、勝忠の邸に入る】同九年七月將軍德川秀忠南宗寺入來に際し、駕を勝忠の邸に抂げられ、勝忠茶を獻じて、小袖及び黃金の下賜があつた。(寬政重修諸家譜卷第五百四十)【法號】勝忠深く佛教を信じ、法號を華林宗珍といふ。人と交はつて信義あり、頗る衆庶の信任を博した。【治績】職を堺奉行に奉じてより十年獄に訟者なく、街に奸人なく、市民善政を謳歌した。(明暗雙々集卷之九)【南宗寺復興】此間澤庵宗彭を援けて、南宗寺の復興に努力した。寬永三年八日從五位下若狹守に敍任、同四年十二月二十六日病を以て卒去した。(寬政重修諸家譜卷第五百四十)享年六十一。(明暗雙々集卷之九)寬政重修諸家譜には六十となつてゐる。【影堂】【安骨碑】南宗寺境内に其影堂があつて、堂内の正面に板繪の畫像を揭げ、其下に前若州太守華林宗珍公靈位の靈牌を安置し、更らに上部には勝忠に對する、敍位口宣案の板額が揭げられ、堂内背面の地上に墓碑があつて、永く祭祀し、堂後には安骨碑がある。碑は卒去の翌年三月二十六日に、澤庵の選文で建設せられたものである。(明暗雙々集卷之九)

第四十三圖版 喜多見勝忠畫像

 
 

第四十四圖版 喜多見勝忠影堂