河盛仁平幼名は新次郞、初名は仁兵衞、後仁平と改めた。天保四年二月十五日出生。【南中之町の人】堺南中之町に住し、【河内屋】河内屋と稱し、綿布問屋を業とした。先代仁兵衞の遺業を繼ぎ、【海運業に活躍】仁寶丸、善寶丸、多寶丸、喜寶丸等多くの船舶を使役し、盛に青森、弘前及び北海道等に取引して商勢を擴張した。(河盛榮次郞氏報告)【公職】明治元年十一月商法取締御用を命ぜられ、(會計御用掛一件扣)七年一月和泉國第一大區四小區の區長となり、(縣御布廳告)九年十月同第一大區一小區の副區長となつた。(堺大觀第一册)
明治維新排佛毀釋に際し、堺縣亦同六年舊寺院に屬する建築物を處分するに當り、【念佛寺三層塔の保存】念佛寺卽ち開口社内に現存せる寺院建築中獨り三層塔のみは其拂下げの厄を免れ、舊態のまゝに、依然として社頭に偉觀を呈して居るのは仁平の盡力によるところであつた。明治十年二月 明治天皇大和、河内、堺及び大阪等御巡幸の際、【別邸を行在所に宛てらる】十三日中之町仁平の別邸を行在所として入御あらせられ、無上の光榮に浴した。(堺縣布達、明治天皇大阪行幸誌)【至孝】仁平繼母に事へて至孝、事官廳に以聞し、明治初年屢々褒賞を受け、(河盛榮次郞氏報告)又神佛崇信の念厚く、且社寺に寄進するもの多く、【野山二堂の再建】紀州高野山金剛峯寺の准胝堂、孔雀堂の如き何れも其再建に依るものである。(大日本寺院總覽)又大阪四天王寺に聖德太子の尊像を寄進し、青森、函館間の一小島に奉祀せる辨財天堂を再建し、官幣大社住吉神社及び同大鳥神社に高御座を奉納した。【社會事業】又其取引地先なる青森、弘前地方に土木事業を助けて架橋せるもの尠からず、何れも其所有船名に因んで榮寶、仁寶、多寶、善寶等の名を附した。又大和川の中流中河内郡三宅村と瓜破村間に架橋して之を〓橋と名づけ、安政の大地震災には死者の供養に充てんが爲めに、本派本願寺に金一千兩を寄進した。(河盛榮次郞氏報告)明治元年五月十三日大和川洪水の際の如きも、【人命救助】安立町及び其附近に救助船を出して人命を救助し、雇人及び加子等各金若干を賞與せられてゐる。(慶應四年御觸書寫)【會計官基金獻納】斯して亦同年金八百兩を會計官基金として率先政府に獻上した。(會計官基金調達元帳)
仁平其居常人に接するに恭敬、【勤儉】儉素自ら奉じ、素食に甘んじ、縞の木綿に小倉の帶、是れが名高い河仁の旦那かと想はれぬ程の風采であつた。【角道を好む】其趣味としては角道を好み、力士の其邸に出入するもの多く、(友淵楠麿氏報告)商標〓の紋付羽織を着た姿の錦繪までも發行せられた。當時の人氣力士黑神菊次郞(明治十三年歿)の如き、贔屓相撲中の尤なるものであつた。(黑神菊次郞錦繪)【晩年】然も晚年は家業蹉趺を重ねて遂に亦起つこと能はず、歿する年の正月に「自分は裸で出て來て、裸で歸るのだ」と述懷してゐたといはれて居る。(友淵楠麿氏報告)明治十八年四月十日京都本派本願寺にあつて病臥し、同寺の看護を受けつゝ、同月二十日享年五十三歳を以て歿した。法諱を釋圓定といふ。(河盛榮次郞氏報告)