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(五七)鳥井駒吉

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 鳥井駒吉は伊助(幼名秀吉、後伊助と改め、晚年に伊六と稱す)の二男で嘉永六年三月十二日生誕、半靜又は粹所と號した。【家系】家世々和泉屋と號して米穀商を營んだ。祖父伊助早世し、嫡男猶幼なかつたので、大和北葛城郡磐城村大字竹内植田藤七郞の三男秀吉を納れ、材木町綿屋熊次郞の女榮を配して、家業を繼がしめた。是れ卽ち駒吉の先考妣である。夫妻は能く先代の遣兒を保育し、嫡男の長ずるに及びて、家産及び業務を嗣がしめ、自らは文久元年家を分ちて、甲斐町西二丁に徙り、酒造業を創め、【春駒の釀造元】家釀に銘して「春駒」と稱した。明治三年四月駒吉は十七歳にして父の喪に遭ひ、直に家業を繼ぎ、爾來酒造家として、既に明治十二年堺酒造組合總代に推され、【酒造組合組長】同業組合を組織して其組長となり、鋭意釀造法の改良を企てた。卽ち十九年九月には農商務省技師肥田密三を招聘して、【酒造改良試驗所酒造改良試驗所を作り、舊習を一洗し且亦同業者が一朝火災の慘害を被らんか、往々起つ能はざる悲境に陷るものあるに鑑みて同業者を説き、【火災救濟同盟會組織】二十五年三月火災救濟同盟會を組織した。之は酒造火災保險會社の先蹤となり、三十年同社の創設せらるゝに及び、駒吉は擧げられて副社長となり、同盟會は解散した。
 駒吉これより先き、【堺精米會社共同釀造場設立】十六年十月宅德平等と共に堺精米會社戎嶋二丁に設立し、二十年同志と相謀り、共同釀造場を神明町西一丁に置き、釀酒に要する經費の輕減並に醇良なる清酒釀出の方法を硏究せしめた。同場は二十一年堺酒造株式會社と改稱し、駒吉は取締役に擧げられた。此間、商標條令の發布に際し早くも「春駒」の商標を登錄し、次で〓、旭山等の商標を得、家釀の販路を擴張し、猶進んで日本酒海外輸出の端を啓かんとし、二十一年西班牙萬國大博覽會に、始めて壜詰の日本酒を出品した。【堺壜詰酒の嚆矢】蓋し堺に於ける壜詰酒の嚆矢であらう。越えて二十五年壜詰用清酒瀘過の方法を考按して同業者に範を垂れ、二十六年十月には自家の業務を移し、同族を綜合した合名組織とし、鳥井合名會社を創立した。これ當時としては最も進んだ經營法であつた。而して前記商標の外更に「大出來」、「浦島」の二酒を加へた。當時芳醇なる灘清酒は、交通機關の發達に伴ひ、其販路益々擴張せる所以を察し、三十二年九月灘御影町の酒造場を買收し、鳥井合名會社御影支店と稱して、【灘酒の釀造】灘酒の釀造に着手し、堺の同業者に先鞭を着けた。二十七年三月 【獻上品】天皇、皇后兩陛下御結婚滿二十五年の御慶典を擧げさせらるゝに方り、堺酒造組合は、鳥井合名會社の釀酒を撰定し、「國酒」と命名して之を奉獻し、二十九年同社の銘酒は、宮内省御買上の光榮に浴し、三十三年五月十日皇太子殿下御婚儀の際、堺酒造組合は重ねて「國酒」と命名して、同社の清酒を奉獻した。二十七年十二月堺酒造組合は、駒吉組長として多年其職に在り、【組合の彰功】功績顯著なるを認め、鳥井家の釀酒「春駒」に因み「左り馬」の銅像を造つて之を贈り、且盛なる彰功記念式を洒造組合事務所に擧げた。又全國酒造組合聯合會は、同氏の二十三年以來、全國酒造大會の常議員として常に在職し夙に全國同業の聯盟を唱へ、二十七年遂に其組織を遂げ、二十九年大會の副會長に選擧せられ、會務に盡瘁した功勞を犒はん爲、同年六月全國酒造組合聯合會總監並に會長の名を以て、謝狀並に物品を贈與した。三十五年十一月堺酒造組合は、駒吉の前後二十五年の久しきに亙り、或は總代、取締、組合長として、職責を全うし、玆に業務多端の故を以て、其任を辭せんとするの意を了とし、請を容れ、永く組合の顧問たらしめ、且盛大なる慰勞彰功の式を擧げ、唐銅錺馬香爐並に青貝古代卓各一具を贈つた。
 斯くの如く幾多の事業を企劃した中に於て、最も特筆すべきは、【大阪麥酒會社の創立】明治二十年大阪麥酒株式會社の創立と朝日麥酒の釀造を擧げなければならぬ。當時麥酒といへば、極めて奢侈的の飮料と見做され、今日の如くに民衆の嗜好と需要を得るが如きは、當時に在つては、到底常人の夢想だにもせなかつたところである。此時に際し、每歳麥酒輸入高の多きを加ふるを見、且少量ながらも國産麒麟麥酒の既に市場に上るあり、惟ふに在來の日本酒は、既に需要の限度にあるも、麥酒は之と相併行し、相當程度の需求あるべきを察し、且國産品として之を海外に輸出するの有望なるを察し、斯業經營の步武を進むるに至つたのである。斯して其企圖に着手するや、自ら國内の調査に從ひ、外山脩造の外遊に際しては、海外の調査を委囑し、後更に生田秀を獨逸に派遣して、機械、技術、經營等遺漏なき調査に從はしめた。駒吉は周到なる調査と遠大なる抱負とを以て、當時大阪に於ける事業界の巨頭松本重太郞、清酒業の老舗石崎喜兵衞、堺の酒造家宅德平等を同志とし、更に財界の有力者を網羅し、水質の適良と、水陸運輸の便とを考慮し、【麥酒製造場の建設】大阪府三島郡吹田に工場を建設した。偏狹なる鄕土愛に捉はれず、國家的事業として同所を選定したことは、氣宇の宏遠と、抱負の偉大とを語るものであつた。而も該事業の經過中に於て、其手腕と氣魄とを以てしても、猶且幾多の難關に逢着した。卽ち二十二、三年財界の恐慌は、此事業の餘りの遠大さに、同志が事業着手までの苦痛に堪へずして、續々離散脱退するものを生じたことで、彼の松本重太郞さへも、該事業の發達といふよりは、寧ろ鳥井の企劃した事業が中止されてはとの交誼上の婆心から、其援助を惜まなかつたやうで、一斑を窺ふに足るものがある。斯る狀態の中に、二十二年同社第一囘役員選擧に於て社長に當選し、二十五年五月同社釀造の麥酒が始めて市場に現はるゝに至つたのである。爾來引續いて社長の任に在り、遂に現今國内では、嶄然他の追從を容さぬ商勢を持し、海外に在つては、旭日の商標と共に其聲價を揚げ、市場に濶步せる朝日麥酒は、實に我堺市の生んだ此商傑によつて其基礎を固められたのである。
 是より先、【鐵道の建設】十五年又阪堺鐵道株式會社の創立を企て、十八年二月難波、大和川間、二十一年大和川、堺間の工事を竣成した。該鐵道は後年南海鐵道株式會社に讓渡され、大阪、和歌山間の聯絡成るに及び、同社の取締役となり、後社長に推された。其他堺貯蓄銀行を創立して取締役となり、泉州紡績株式會社の監査役等、實業界に關係した數は枚擧に遑がない。
 【公職】駒吉亦夙に公職に在り、明治三年二月堺通商司は、爲替會社兼通商會取締を命じ、同年十月兩會社頭取並に進み、六年九月堺縣は、石錢方金預を命じ、八年三月教會事務掛兼學校世話掛となり、四月和泉國第一大區第三小區一番組副戸長を、十年七月同第二小區副戸長を命ぜられた。十三年五月堺縣會議員に、十四年七月堺區會議員に當選し、次で議長となつた。十五年八月大阪府會議員に、翌十六年更に府會議員に當選した。二十二年市制實施に當り、堺市會議員に當選し、二十四年四月堺市參事會員となつた。爾餘堺縣海灣浚疏委員、所得税町村調査委員、堺市兵事會參事員、同常設勸業委員長、同所得税調査委員、同徵兵參事會員、亞米利加合衆國萬國博覽會出品協會名譽委員、第四囘内國勸業博覽會審査官、佛國巴里萬國大博覽會出品協會創立委員、創立二十五年記念博覽會審査委員、佛國巴里博覽會出品聯合協會商議員、第五囘内國勸業博覽會期成同盟會委員及び商議員、同勸業博覽會協贊會相談役、五二會堺支部監督、第三囘五二會大會問題調査委員等の職にあつた。
 明治六年皇城炎上に際し、【獻金】獻金して賞詞を賜はり、二十年十二月海防費金一千圓を獻納して、【黃綬章下賜】勅定の銀製黃綬章を下賜せられた。又日本赤十字社の事業を翼贊し、同社は二十六年十月終身社員として藍色綵花を交付し、二十九年六月有功章を贈與し、三十年四月更に特別社員に推選された。其他堺港波止增築費、堺警察署新築費、大阪、堺商品陳列所建築費の寄附、堺窮民の救助、府下大洪水殘餘貧民救助、全國各地方に於ける水害、震災、火災等に義捐した金品は、少額ではなかつた。其他二十一年宅德平、肥塚與八郞、大阪の巨商松本重太郞、田中市兵衞、佐伯勢一郞等と共同して、景勝の地、大濱一丁舊善法寺址に旭館を設け、知己交遊の機關たらしめた。【至孝】駒吉亦母に奉ずること極めて厚く、其好むところ、信ずるところは、自ら悉く之を好み、之を信じて怠ることなく、又斯の如く事業界に心血を濺ぐと共に、【敬神崇佛】一面敬神、崇佛の念深く、事蹟の遺されたものが各地方に存するが、就中堺市内では、開口神社境内には其碑記を、方違神社には三國丘の大碑を建設し、碑面に其風懷「耳原に來て鶯の初音哉」の句を刻して永遠に記念として居る。【餘技】斯して亦一面風流韻事を解し、既に別邸に榜して娯觀家といひ、俳句を善くし、茶湯にも通じた。又人に接するに溫容を以てし、交るに城府を設けず、淡如洒脱の間に能く衆望を得た。而して其事業は、是より益々大を加へんとしたが、(鳥井君半生涯)四十二年五月二十四日享年五十七歳を以て歿した。諡して興德院釋道顯といふ。最勝寺に墓碑がある。