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(六)廢集雲菴

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 【位置】集雲菴址は南旅籠町東三丁南宗寺境域の東北隅、德泉菴の東にある。【沿革】一休の門弟岐翁紹禎、師に背いて擯出せられ、市之町六間筋に集雲菴を構へて居住したが、後宥免せられ、集雲菴の名稱を南坊と改稱せしめられた。(堺鑑下)第二世南坊宗啓千利休の高弟で、當菴三疊の茶室には屢々茗讌開かれ、天正十三年九月利休と共に、茶湯の準則となるべき、露地清茶規約七箇條を制定し、之を茶室松下堂に揭げた。菴は實に南坊派茶道の淵藪であつた。(南坊錄)元和の兵燹に燒失し、(堺市史蹟志料)澤庵南宗寺復興の際、塔頭の一に加へられ、外門の東北隅に移り、東西二十六間、南北十四間の敷地を占め、(南宗寺諸法度、南宗寺地割之圖)寬永三年後板宗理によつて再興せられ、(堺市史蹟志料)明治維新の際に廢絶した。