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(八)大安寺

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 大安寺布金山と號し、【位置】南旅籠町東三丁字寺町にあり、東福寺末、寺格一等地。【沿革】應永元年德秀士蔭(應永三十二年六月九日示寂)の開創に係つてゐる。(堺鑑中、泉州志卷之一)德秀は東福寺開山聖一國師五世の法孫寰仲の神足である。(泉州志卷之一)足利義滿、同義持深く崇信し、(泉州志卷之一)今の新在家町東三丁字絹屋六丁目に伽藍を創建するに及び、寺領二百石を寄せ、境域方二町、塔頭六坊を有したが、元和元年の兵火に罹り、【印寺領】寺領の印狀を失ひ、同三年八月將軍德川秀忠より、更めて二十九石五斗の印を得、慶安年間當所に移轉再建した。(明治三十五年寺院提出書類)【舊塔頭】寶永元年の記錄には塔頭に楞巖院以心菴西來菴、忙閑菴、正宗軒藏六軒の六坊の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)印地は明治四年正月上地した。【本尊】本尊釋迦牟尼佛、【堂宇】本堂兼庫裏、居間、玄關、鐘樓、納屋、門の外に祖師堂及び地藏堂あり、境内千一坪を持つてゐる。(社寺明細帳)【傳説】方丈は納屋助左衞門の舊宅を移したと傳へられ、松永久秀玆に莅み、壯麗を歎賞したが、忽ち刀を執り柱を斫つて、盈滿を誡めたと云はれ、久秀刀痕の柱と稱するものが存して居る。(和泉名所圖會卷之一、大安寺之記)猶一説には西九郞兵衞の舊邸を移したものとも云はれて居る。(老圃歷史)【襖繪】西湖の畫襖四枚、同粘壁三箇所、同腰高障子六枚は金砂子、又は金箔押で、狩野元信筆と稱せられ、藤畫襖四枚、檜畫襖六枚、猿猴畫襖六枚、同腰高障子六枚、梅畫襖四枚、鶴畫襖七枚、同粘壁四箇所、同腰高障子二枚、松畫襖四枚は何れも、金箔押で、狩野永德の筆と傳へてゐる。就中松の畫は傳へて永德寓居の際之を作り旅裝を整へて東國に赴き、尾張鳴海驛で一枝の足らざるを想起し、忽ち引返して描き添へたもので、【襖繪枝添の松と傳説】世に枝添の松と稱せられてゐる。(和泉名所圖會卷之一)傳ふるところ柳里恭の雲萍雜誌の記事と相違するところあり、文部省編纂尋常小學國語讀本卷十一所載「畫工の苦心」と題する記事は、同誌を原據としたものである。(雲萍雜誌卷三)【庭園】方丈の庭園には千利休の時雨井及び虹手水鉢と云はれる利休好の棗形手水鉢あり、【什寶】什寶に傳空海筆兩界曼荼羅二幅、作者不詳釋尊座像一軀、同聖觀音立像一軀、同出山釋迦立像一軀、同達磨座像一軀、開山德秀和尚座像一軀、傳納屋助左衞門呂宋將來茶壼一個、古銅蛸形香爐一個、同獅子香爐一個等がある。方丈の庭に牡丹花肖柏の墳及び俳人松木淡々の頭巾塚あり、【墓碑】墓地には當寺の住職で歌僧であつた春山士蘭及び高足春秋菴栗山滿光の墓牌がある。

第九十七圖版 大安寺襖繪