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(一)惣會所址

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 【所在】德川時代の惣會所址は開口神社境内、菅原神社境内、少林寺町東二丁、櫛屋町東二丁、櫛屋町大道、市之町西二丁の六箇所にある。堺は行政上初め市街を南本鄕、南端鄕、北本鄕、北端鄕の四鄕に分ち、後、南北兩組の二鄕としたので、之に倶ふ惣會所址も前後六箇所ある事となつたのである。舊址は左の通りである。
 【南本鄕惣會所址】〔南本鄕惣會所址〕 元祿二年の堺大繪圖其他にも所在を明記してゐないが、此惣會所の後身たる南組惣會所が開口神社境内に存し、一面北本鄕惣會所大小路以北の氏神であつた菅原神社境内に置かれ後北組惣會所とせられたのによると開口神社境内所在とすべきである。設置年代は北本鄕惣會所と同じく、其管轄區域も本町分十五町、附町分十九町、濱筋分十町、百姓町分九町計五十三町で、大體現在の市之町より以南、南半町以北の内、山口筋、寺町筋を省いた所であつた。
 【北本鄕惣會所址】〔北本鄕惣會所址〕 元祿二年の堺大繪圖に菅原神社境内東南隅、現在連歌所の東方に西面の表十二間(新間十三間)入十一間(新間十一間五五寸)の境域を記してゐる。殊に同社東側の天神東片原町には本鄕惣代屋敷二箇所、本鄕職事屋敷三箇所を記してゐる。設置年代は四鄕分割と同時に置かれたもので、本町分十三町、附町分二十四町、濱筋分十七町、百姓町分九町合計六十三町を管轄し、其區域今の熊野町より北半町迄の内山之口筋、中濱筋、寺町筋を除いた間であつた。此會所は廢止後暫く北組惣會所となつた。
 【南端鄕惣會所址】〔南端鄕惣會所址〕 南端鄕惣會所は元祿二年の堺大繪圖に惣會所十間筋の東側南角に西面し、表十一間(新間十一間五五寸)入十間(新間十間五)を記してゐる。此地は今の少林寺町東二丁七番地呉服商川村芳太郞氏住宅、同丁八番地ノ一米穀商吉田音吉氏住宅に相當する。其設置及び廢止年代は前同樣である。管轄區域は本町分十九町、附町分五町計二十四町で、現在の市之町以南、南半町以北の内、山口、中濱、寺町の三筋に該當してゐる。
 【北端鄕惣會所址】〔北端鄕惣會所址〕 北端鄕惣會所は元祿二年の堺大繪圖に藏屋數下町西側北角にあつて東面し、表七間(新間七間三五寸)入十間(新間十一間五五寸)を記してゐる。舊址今の櫛屋町東二丁堺税務署の位置である。此惣會所は前二箇所と同じ年代に置かれ、後北組惣會所の一部に用ひたが、後に絲割符會所となつた。管轄區域は中濱筋十一町、山口筋十一町、東筋分十七町計三十九町で現在の北半町以南、熊野町以北の内、山口、中濱、寺町の三筋であつた。
 【南組惣會所址】〔南組惣會所址〕 北組惣會所と同じ理由で置かれた南組惣會所は開口神社境内にあつた南本鄕會所を用ひ、管轄は南本鄕、南端鄕の兩鄕を合した南組七十六町で、現在の市之町以南南半町以北であつた。開口神社西門境内北側、往時の食堂の位置にあつたが、享和元年五月市之町大濱筋へ移轉した。(老圃歷史)移轉後の惣會所は現在の市之町西二丁で、文化十五年改堺繪圖には大道より西四筋目の西側市之町南北中央の稍々北寄に記入してゐる。
 【北組惣會所址】〔北組惣會所址〕 四鄕制度を二鄕制度とした爲め、從來の北本鄕、北端鄕の兩惣會所を北組惣會所として使用した。管轄區域は舊來の北二鄕を合した百二町の區域で、現在の熊野町以北、北半町以南であつた。後天神境内の會所は櫛屋町大道へ移し、藏屋敷下町の建物は絲割符會所に使用した。移轉後の位置は文化六年改堺町繪圖に櫛屋町大道西側に記され、今の同町大道西側中央に當る。境域の幅員は明瞭でない。