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紛争の経緯

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 シベチャリ川下のシベチャリの首長(乙名(おとな))センタインが川上のハエの首長オニビシ派に属する地域の漁猟圏を侵し、再々に入り込むが、センタインの威力が強く、オニビシは手出しできずにいた。その後センタインが死んだので、慶安元年(一六四八)、シベチャリ脇乙名シャクシャインと仲直りを以て、酒宴を開いたところ、シヤクシャインが酒に酔って、オニビシの手下一人を殺し、そのつぐないのことで争いになり、その年の冬より軍(いくさ)になった。承応二年(一六五三)春にはオニビシシベチャリを襲い、センタインの子でシベチャリの首長になっていたカモクタインを殺すに至った。
 「軍仕候得ば島中の夷騒動、其上商買物も調兼、松前商船勝手も悪敷」(蝦夷蜂起)なる上、寛永十年(一六三三)よりシベチャリ川流域で砂金採掘を行っている松前藩はその打撃も大きいことから、佐藤権左衛門、下国内記を派し、カモクタインに代わって首長になったシャクシャインオニビシに俵物、酒などを遣わして、和解をさせ(津軽一統志)、明暦元年(一六五五)には両首長を福山館に召して対面させ「向後出入仕間敷」(蝦夷蜂起)ことを誓わせた。これで紛争は治まったかに見えたが、これは松前藩からの強制的なもので、根本的解決にはならなかった。シャクシャインが勢力を回復するようになると、漁猟圏問題を巡って、再び争いを起こすようになった。寛文五年(一六六五)、オニビシの支配領域ヘシャクシャインが入り込み「熊の子二ツ取て川を下申候を、折節鬼ひし見懸……其方二ツ取申内、一ツ此方へくれ候へ」とオニビシがいったが、シャクシャインはそのまま無視して通ったこと、さらにシャクシャイン方のものが「鬼ひし在所を通り鹿取に山え参候を、鬼ひし見付、山え押懸、其方共は川にて魚取申事は自由に可有之候。是より奥え山の義はとらせ申間敷由、きびしく申付」(津軽一統志)という押し問答があり、漁猟圏を巡って再び紛争が表面化した。ウラカワで鶴を取ったオニビシの甥ツカコホ(ボ)シをシャクシャインが不届として打ち殺し、つぐないを求めたオニビシに対して、シャクシャインの返事は埒(らち)があかず、オニビシ側はシャクシャインの所へ押し寄せるに至ったことで、金掘の文四郎が仲に入り、松前へ出向いた。『津軽一統志』にはシャクシャインからつぐないを出させ、無事処理するように申し渡されたとあるが、『寛文拾年狄蜂起集書』では文四郎がシャクシャインから仲直りの証に、松前殿へ差し上げるようにと渡された太刀を金山奉行に渡し、「金山の事計承り罷帰り」シャクシャインには「其方頼申候事、太刀を指上げ申候得共何とも不被仰付候」と返事したとあり、文四郎は金が思うように出ないため、飢餓状況にあるシベチャリ山の金掘たちの救済にシャクシャインを利用したように書かれている。したがって『寛文拾年狄蜂起集書』は「畢竟蜂起の本は蠣崎作左衛門(金山奉行)、金掘文四郎両人仕候て作り出し申候」と書いている。それでシャクシャインは、いよいよ殿様はオニビシひいきと思い、つぐないの話し合いで、オニビシが文四郎宅へ入ったところを確認してオニビシをおびき出して殺した。以後オニビシの甥ピポク(新冠)のハロウ、サッポロのチクナシがシャクシャイン側と攻防を続けたが勝てず、そこでオニビシが親松前藩アイヌ首長であったことから、ハロウ松前へ行き、飯米、武道具の借用を申し出たところ、松前藩は、仲間同志の争いに兵具を遣わした例はないとして、俵物、酒などを遣わして帰した。翌寛文九年(一六六九)四月、オニビシの姉婿サルのウタフ(ウトサマ)が再度松前へ出かけ、兵具、俵物の借用を申し出たところ、「追付侍共遣様子聞届首尾好可申付」(津軽一統志)とて、ウタフには俵物、酒など少々遣わして帰したが、不幸にもウタフはその帰り、オシャマへ(長万部)で疱瘡をわずらって死亡した。これがオニビシ派のアイヌには「松前殿は我らのお願いにも同心なき上、ウタフは毒飼されて相果てた」と伝わり、大きな動揺を引き起こした。