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知行所の宛行

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 寛文のアイヌ蜂起に際して、蝦夷地に入った金掘鷹待が多く殺されていることから、蜂起後のアイヌに対する誓約書で、金掘鷹待には乱暴しないことのほか、献上の御鷹送りには昼夜にかかわらず、これを勤め、御鷹の餌となる犬には代償がなくても供出することを誓わせたことはすでに述べた。献上になる、また他藩の需要にも応じる鷹の捕獲は藩の重要な収入源でもあり、したがって、藩主はその鳥屋場(とやば)を「侍中」=「支配所持」に知行地として宛行(あてが)っていたことは前に述べたとおりだが、この蜂起後藩主一族一門のほか、藩の事績に功のあった侍中ならびに侍中に取り立てた者に逐次蝦夷地に、特に、シコツ、イシカリは巣鷹の産地でもあるので、そこに鳥屋場を知行地として宛行っている。寛文のアイヌ蜂起の功による藩士への蝦夷地知行の宛行は不明だが、『松前主水広時日記』(以下『広時日記』と略記)元禄五年(一六九二)七月十三日の条に
関嘉左衛門兼助長々年寄迄亀田奉行相勤、依之埣高橋忠右衛門兼貞被召出の上、先祖家督被仰付。其上兼助え、石狩御場所の内支配被下之。

とあり、イシカリ地域の藩士の知行は、寛文から元禄期にかけて逐次宛行われたもののようである。

この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、
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写真-1 松前主水広時日記(横浜市松前之広氏蔵)

 イシカリ川の河口は藩主の主要なアイヌとの交易場であり、したがって藩士の知行地鳥屋場は内陸部に入っており、イシカリ十三場所の一つとなるサッポロもここでほの見えてくる。
 元禄十三年(一七〇〇)の『松前藩支配所持幷家中扶持人名前帳』(以下『支配所持名前帳』と略記)によるイシカリ場所持の名前は次のようである。
手汐石猟(イシカリ)ノ伊別満多北村目名川白府村喜古内村同川鳥屋五拾九ケ所  松前 藤兵衛
   辰四十三歳
石猟ノ遊張志古津留参及部村同川礼髭村鳥屋拾八ケ所  松前  主水
   辰四十九歳
           (中略)
石狩ノシユマ満布乙部村同川鳥屋六ケ所  下国新五兵衛
   同六十三歳
           (中略)
石狩ノ沙津保呂鳥屋壱ケ所  小林兵左衛門
    同五十歳
           (中略)
石狩ノ沙津保呂鳥屋一ケ所  目谷六左衛門
   同四十三歳
前同断  高橋左五右衛門
   同三十八歳
           (中略)
石猟ノ志古津鳥屋一ケ所  南条 安右衛門
   同二十九歳
石狩ノ賀波多鳥屋一ケ所  土屋 弥七郎
   同断

注・南条の支配所「石猟ノ志古津」は「石猟ノしのろ」の誤りか、志古津は石狩と区域を別にしており、享保十二年の『松前西東在郷幷蝦夷地所附』によれば、南条安右衛門の支配所は「しのろ」になっている。

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写真-2 松前藩支配所持幷家中扶持人名前帳(東京大学史料編纂所蔵)

 この支配所持八人のうちにも高橋のように元禄期までに、新たに支配所持として取り立てられたものもいたであろう。『津軽一統志』は侍中を三四人あげているが、元禄年代は支配所持が七六人にもなっていることでも理解できる。