イシカリ川と、その支流に位置する現在の札幌市域を包括した地域が、きわめて鮭の豊富なところとして和人史料に登場してくるのは、前述したように水戸藩の派遣した大船快風丸によるものであった。
このように鮭は、早くから蝦夷地の産物として昆布・鰊とならんで重要品目に入れられ、しかもその多くが松前地よりも蝦夷地内で産した。なかでもイシカリの鮭はよく知られていたらしく、享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』にも、「鮭 蝦夷地之内 石かり ましけト云所ニて多く取ル」とみえる。その多くはアイヌの食糧にあてられ、「山川の方ニテ取申候ハ、多干鮭ニ致由、干鮭ハ川上へ上り鮭末になり申候節いたし申候、野ニも山ニも当り合にかけ干置、余程干申候節家内へ取入、焼木の上に釣」って乾燥させ、干鮭にした。これに対し、海辺で捕獲した鮭は、「従松前塩を遣し置、塩引ニいたし又其時節松前より塩舟積ニて罷越」(以上、松前蝦夷記)し、塩引加工された。
このように豊富な鮭は、前述したごとく元禄年間を通じて、干鮭の多くとれる地域は、夏商の主産物として家臣へ給与されていたし、一方の「生鮭」は、藩主の利権として位置づけられていたが、塩引加工などにされて、松前、東北方面へ多くもたらされるようになっていた。このため、夏商にせよ、「生鮭」交易にせよ、従来の単なる点としての存在の「商場」から、面としての「場所」へ活動の場を広げ、しかも、その交易は必ずしも現地で行われるのではなくて、下流域や川口で集中的に行われるようになっていったらしい。しかしこの場合、飯料となる鮭は、アイヌの既得権として尊重され、「場所」設定時にも川口の鮭は藩主に、また川上のそれはアイヌの飯料と分けられ、しかも時期で区分していた。