ビューア該当ページ

上ツイシカリアイヌの離散

464 ~ 465 / 1039ページ
 シレマウカの本拠地である上ツイシカリの場合、もっとも大きな影響を受けている。東蝦夷地内のウライ没収以降文化十年(一八一三)までの間に、シレマウカとその一族が上ツイシカリを去ったため、「上ツイシカリ蝦夷人住居不仕不残他場所住居仕候」(由来記)というごとく、無人と化している。『由来記』に記された文化十年十一月付の上ツイシカリ通詞幸吉以下三名の報告は、次のようにそのありさまを伝えている。
 家数三十七軒   上ツイシカリ場所
  人数百四十八人
   此住居旧来唱来
 家数七軒     千歳川之内イサリフト
  人数二十六人
   是はシレマウカ幷サエラフニ同夷共ウタレニ御座候。代々住居仕候。
 家数三軒     イシカリ之内ハツサフ場所
  人数九人
   是はシレマウカウタレニ御座候処ムイサリウラエ相止候ニ付当分為取継引越罷在候。
 家数弐軒     イシカリ之内トウヘツフト
  人数八人
   是ハシレマウカウタレ御座候粟稗蒔青もの取勝ニ御座候ニ付代々住居仕候。
 家数弐拾六軒   イシカリ之内上川
  人数百五人
是は先年松前勇馬様御知行所之節西蝦夷地テシヲ御場所御同人様御知行ニ御座候処、不漁之年引越之節支配人壱人ニて兼滞仕候ニ付其儘差置、尤鱒多く喰料差支候場所ニ無御座候、右人数取扱勝手ニ相成候。其後人別御取調之節上ツイシカリ人数ニ相成候。

 この報告によれば、上ツイシカリには、三七戸、一四八人が住んでいることになっているが、当時誰も住んでいなかったという。このうち、上川へ行った二六戸、一〇五人は、第一節で触れたごとく、問題外と考えてよいだろう。残りの一二戸(合計家数が三七戸になっているので、計算が合わないが)、四三人については、まさにシレマウカのウライ没収に関わる移転とみてよいだろう。移転先の内訳は、千歳川イザリブトへ七戸、二六人、ハッサム場所へ三戸、九人、トウベツブトへ二戸、八人という具合である。うちイザリブトへの移転は、シレマウカと息子やウタレたちで、「代々住居仕候」といっているので上ツイシカリのほかイザリブトにも住居があったとみてよいだろう。一方、ハッサム場所への移転もやはり、シレマウカのウタレで、ムイザリのウライが没収されてしまったのでやむなく飯料を求めて他場所へ移転したものであろう。残るトウベツブトへの移転もやはりシレマウカのウタレで、粟、稗、青ものなどをおもに栽培していたらしく、住居もあったとみてよいだろう。ということは、上ツイシカリの産物が乏しく、シレマウカ所有のイザリムイザリのウライによってささえられていたが、それの没収のために、食糧を求めて他場所へ移転を余儀なくされ、無人と化したといえよう。ウライの没収が一場所の衰退を招いた例である。