ビューア該当ページ

寛文期の史料から

475 ~ 478 / 1039ページ
 イシカリ川とその支流に広がるサッポロ地域の状況が、記録に登場してくるのは、寛文九年(一六六九)から翌年にかけてのアイヌの蜂起事件と関係する。
 蜂起事件とは、第三章で触れたごとく、松前藩商場知行制の確立にともない、和人の不正交易に対するアイヌの不満が高まり、また松前藩アイヌの分断政策により部族間の対立が激化し、以前から続いていた内戦状態がいよいよ松前藩との戦いにまで発展した事件である。この事件発生により、幕府は東北四藩に援軍や武器援助、後詰めを命じた。
 この時東北四藩のひとつ弘前(津軽)藩も援軍を派遣したり、また物聞(ものきき=密偵)を派遣して松前蝦夷地の詳しい情報を集めている。すなわち、『津軽一統志』巻第十がそれであり、いまひとつは『寛文拾年狄蜂起集書』である。両史料ともに、イシカリにはいたっていないため聞き書きではあるが、総合すると当時のイシカリ、サッポロ地域は次のように描かれている。
 ①イシカリ川の地形は、一四、五里四方ほどの平野が広がり、四方の山がかすんで見えるほどである。そこには、柏、芦、竹などの大木が繁茂していて、アイヌの通路もなさそうである。
 ②イシカリ川の河口の幅は、二〇〇間ほどもあって、深さは七尋(ひろ)ほどで上流にはもっと深いところがある。川の水は平生うず巻いて流れているようには見えないが、水の勢いが速いので風が弱いと船がのぼれないほどである。
 ③川岸の高さは、八尺から九尺もあって、竹や木が生い繁って左右が見えないほどである。
 ④イシカリ川は、何度となく洪水をくりかえしている川で、とりわけ春先は洪水が頻繁で、その規模たるや水がひいたあと大木の枝に川ごみが引っかかっているありさまである。川上は遠く離れていて、五、六日後になって増水してくる。
 ⑤イシカリ川河口から一里ほどのぼって「はつしやふ」(ハッサム)があり、さらに二里のぼったサッポロにはアイヌが住んでいる。サッポロの枝川に縦横半里ほどの沼がある。河口より順風二日のぼるとチヨマカウタというところがあり、多くのアイヌが住んでいる。ここまでは松前の船がのぼってきて、方々からアイヌも交易のために集まってくる。チヨマカウタより川路二日でツイシカリというところへのぼるという。これより先へは、水の流れが速いのでチヨマカウタより上へは船はのぼっていない。
 ⑥チヨマカウタよりハウカセの住んでいるところまでは、五日ほどかかり、さらに二日程のぼると「フリウ」(雨竜)川の合流点に着く。ここにはハウカセの姉婿のウカイシャケが住んでいる。
 ⑦「はつしやふ」は、イシカリ川河口から一里のぼったところに位置し、乙名(おとな)のヨロタインがいて、家は二〇軒ばかりある。さらにその上流には、サッポロがあって、乙名のチクニシがおり、家も一四、五軒ほどある。

 以上の二つの史料から、当時のイシカリ川水系のおおよその自然景観をうかがい知ることができる。そして、その支流にはハッサム、サッポロが位置し、首長ヨロタイン、チクニシのそれぞれの勢力下にあったこともうかがえる。さらに、松前の商船が交易に来るチヨマカウタ、そしてイシカリ川水系の惣大将ハウカセの居住地といった具合に、寛文のアイヌ蜂起事件当時の松前藩アイヌ社会との関係をつぶさに伝えてくれる。
 ところで、ここに紹介した『津軽一統志』巻第十には、「松前之図」(写真1)が付されていて、地図自体は必ずしも精巧とはいえないが、アイヌ蜂起事件に関する「鬼ヒシ住所」や「シヤクシヤ犬住所」、あるいは和人側の商船の数、松前藩士の警備人員等が図上に記されていて興味深い。そればかりでなく、イシカリから東海岸へ抜けるシコツ越えルートには、太い川と二つの大きな沼がひょうたん形に描かれている。これは、『津軽一統志』の中にも、「石狩川口よりいへちまたと申所迄三日路余御座候。此いへちまたよりゆふはりのぬまへ小船にて往来仕候由」とあり、また『寛文拾年狄蜂起集書』の中にも、ハボロよりシコツ、シラオイへの道筋について、ノブシャ川を遡ってイシカリ川へ出、それよりエベツ川を遡ってユウバリ沼、シコツの浜へ出られるとあることから、東西を結ぶ連絡路として、かなり古くから用いられていたことがうかがわれる。東西を結ぶ人と物の往来・流通があったからこそ、寛文のアイヌ蜂起事件の際にイシカリ川水系とその連絡路の状況が詳しく報告されたに違いない。

この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、
著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。
 
写真-1 松前之図-部分-(津軽一統志 巻第十 東京国立博物館蔵)