寛文のアイヌ蜂起事件からややしばらくたった元禄元年(一六八八)、水戸藩は快風丸という大船をイシカリ川まで派遣し、寛文の事件以後の蝦夷地の状況を探っている。その際、イシカリ川流域の自然景観や産物、アイヌの社会についてかなり詳しい報告をしている。その報告書『快風丸記事』によれば、おおよそ次のとおりであった。
①イシカリ川の広さは、水戸藩領の那珂川(なかがわ)より広く、深く思われる。川の脇にアイヌが住んでおり、両脇は平野になっていて、四、五里ほど先に大山が見える。平野は、木立が繁っているので、往来は舟を用いる。
②イシカリ川を通詞一人をともなって、鍋、米、味噌を櫃(ひつ)に入れて担わせ、苫(とま)なども持たせ、川に沿って七人で三日路ほどのぼり、夜は小屋をかけて苫をふいて休んだ。アイヌは別に警戒するふうでもなく、何の陣もなかった。
③鮭が川にのぼる季節には、舟の艫に鮭があたるほど多くのぼると。アイヌとの商品の交換は、生鮭一〇〇本に対し、米もしくは糀(こうじ)一斗二升、あるいは酒五升か煙草一斤といった比率で、これは松前藩が決めた値段であると。
このほか、イシカリに船が到着すると、たくさんのアイヌが集まってきたが、半分以上が女性で男性は少なかったことや、集まり来たもののうちに、オニビシやシャクシャインの親類もいたことや、アイヌの首長のことなど興味深く触れている。
快風丸は、水戸藩が七〇〇〇両余をかけて建造した大船で、二度は大風に遭い失敗し、三度目にようやく松前蝦夷地に着岸できたわけである。快風丸がイシカリに到着したのが六月二十六、七日頃で、滞在すること約四〇日、八月六、七日頃にイシカリを去っている。この間、イシカリ川口はもとより上流まで見分し、アイヌの生活にも触れて多くの情報を得ている。
結局、快風丸のイシカリ調査の目的は何だったのだろうか。アイヌ蜂起事件から約二〇年ほど経た蝦夷地の政情を探ることと、いまひとつ蝦夷地の産物、なかでも鮭の交易ルートを探ることではなかったろうか。快風丸が積み帰った産物のうちに、干鮭のほかに一万本にのぼる塩鮭があったことは見逃すことができない。快風丸の持ち帰った蝦夷地に関する報告は、以後水戸藩の北方への関心の基礎になったと思われる。