たまたま文化三年(一八〇六)、幕府の命により西蝦夷地を見分した目付遠山金四郎と勘定吟味役村垣左太夫の二人は、イシカリ川を遡ってツイシカリ川のところで、近年サッポロ川本流がツイシカリ川に切り替わったことを目撃し、次のように記している。
津石狩川 [蝦夷家弐軒有之候幅五間計、此所にて石狩川へ落合申候。]
右近年迄は小川に御座候処、四、五年以前大水にてサツポロ川上に切所出来其後ツイシカリ水深船通路自由の川に罷成候由。
右近年迄は小川に御座候処、四、五年以前大水にてサツポロ川上に切所出来其後ツイシカリ水深船通路自由の川に罷成候由。
これによると、遠山、村垣の蝦夷地見分より四、五年以前ということから、享和元年(一八〇一)か翌年頃のことと考えられる。
もともとツイシカリ川は、当時の正確な地図がないので確かなことはわからないが、前掲の「飛驒屋伐木図」でいうならば、サッポロ川とエベツ川との間を北流し、イシカリ川に流れ込む小川であったらしい。またツイシカリは、アイヌ語で「to-e-shikari(沼が・そこで・回る)」(山田秀三 北海道の地名)と解釈できるともいわれているところから、沼から流れ出た小川であったのであろうか。
いずれにせよツイシカリ川が一九世紀のはじめにサッポロ川の本流となり、それまでのサッポロ川はフシコサッポロ川(フシコはアイヌ語で古いという意味)と名前も変えたようである。こうして、現在豊平川と呼んでいる川が誕生したわけである。