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山崎半蔵

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 文化四年は、前年以来のロシア船の来襲により、蝦夷地の各所へ警備に赴く幕吏や藩吏の往来が盛んだった。弘前藩士山崎半蔵もその一人で、田草川伝次郎ら一行が西蝦夷地を見回った同じ年、ソウヤ警備を命じられ、ユウフツよりシコツ越えしてイシカリに出ている。
 五月三十日にユウフツを出発した山崎半蔵は、千歳会所で一泊した。ここでは、津軽海峡にあらわれた異国船(のちに英国船と判明)を逃れてユウフツの開墾場より避難してきた八王子千人同心の妻や子供らを目撃している。翌六月一日は、千歳川を下り、イザリブトを通ってイシカリ川へ出、その日のうちにイシカリに到着したが、途中のイザリムイザリ二村のところでは、が豊富にとれて、一昼夜で八〇〇〇尾は下らないとまで記している。わずか二日間で越えたシコツ越え道ではあるが、山崎は次のようにみている。
此東西ヲ山中ユウフツヨリ西へ越ルモ川ヲ (本ノママ) リ又石雁(イシカリ)ヨリ東へ越ルモ逆上(さかのぼ)ル。此地勢南北ノ括レ所ニテ低ク東西ノ間狭シ。沼川計多其地モ埿菹ノミ。別ニ高キ所モナシ。東西舟行自在ノ如シ。土夷曰。太古ハ此間海ナリシヲ追々地生育チ海浅瀬テ斯ク成レリト話モ宣フナリ。

 このように、東西の間が狭く沼や川ばかりなので、舟路に適しているとみたのだろう。おまけに、昔は海だったのが次第に当時の状況になったとのアイヌの言い伝えさえ聞いている。