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復領の申渡し

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 文政四年(一八二一)十二月七日付で、松前藩は旧領に復帰することを許された。この復領についての幕府の意向は、幕府直轄によって蝦夷地の奥地島々まで取締りが整い、アイヌの「撫育」や産物取捌等まで一応行き届いたので、松前家が蝦夷地における草創の家柄であり、かつ数百年来の所領でもあるので、特別の配慮で許すというものであった。
 幕府は、松前藩に領地を返還するにあたり、引継手続きのあと、松前藩アイヌの両方にそれぞれ申渡しを行った。松前藩へは、幕府直轄中の施政方針を堅く守ってアイヌへの「撫育」をはかるとともに、辺防の備えを厳重にし、万一非常の際には、弘前(津軽)藩および盛岡(南部)藩と協力すべきことを指示した。
 一方、アイヌへは、文政五年五月松前奉行から松前藩への領地引継の際、松前奉行アイヌの三役(乙名(おとな)、脇乙名(わきおとな)、小使(こづかい)等)を通じて、アイヌ「撫育」や産物取捌の方法は、今後も万事直轄中と同様であるので、安心して産業に精を出すようにといったことを申渡した。また、同年五月二日付で松前藩からもアイヌに対し、まったく同様な申渡しがなされた。
 ところで、幕府は松前藩に領地を返還する少し前の文政元年(一八一八)、当時の松前奉行が「御主法替」、すなわち蝦夷地の経営方針を変更していた。その時の「御主法替」の内容は、運上金・上納金の引き下げ、請負人への融資、問屋、小宿の収入増をはかる等であった(松前御所置御主法替一件書物 阿部家文書)。
 これらは、問屋、小宿の収入増をはかる点を除いて何らかのかたちで実施されたという。運上金については、東蝦夷地では、一万八六〇〇両余(文化十年)が九八〇〇両余(文政五年)に、西蝦夷地では一万三三〇〇両余(文化十二年)が一万一八〇〇両余(文政五年)にと減額された。これは、請負人の困窮によって町々の経済までが停滞し、一般庶民まで窮迫したことを重くみて請負人の救済策に乗り出したものであった。
 このような幕府の「御主法替」を受けて、松前藩は、アイヌ「撫育」の問題と、いまひとつ蝦夷地からの収納の安定といった大きな問題を抱えていた。しかし、幕府自身が最初の直轄で種々試みたとおり、アイヌ「撫育」も大切であるが、場所請負制による場所経営に多少なりと問題があることを認識しながらも、財政事情などからむしろ請負人の保護を講じてきたことも確かである。蝦夷地全域の返還は、このような要因のもとに行われた。幕府が蝦夷地を直轄して管理することの重要性が、変化したのである。