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出稼所の設置

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 ロシアとの境界画定が成立しておらず、ロシア・日本双方の雑居地となっていたカラフトに、幕府及び箱館奉行は、安政三年(一八五六)以降、漁業開発をおこない、あわせて領土権の主張の根拠にしようとしていた。
 カラフトの西海岸クシュンナイに、イシカリ出稼所が設置されたのも、その動向の一端であった。安政五年九月に城六郎を北地詰のところをさらにイシカリ増詰とし、北地・イシカリ詰の兼務としたのは、イシカリ役所クシュンナイ開発を担当させる構想にもとづいていた。特にクシュンナイが問題となったのは、安政四年以降、ここに住居するようになったロシア人の南下を防ぐためにも対抗上、日本の施設が必要となったからである。箱館奉行では安政五年十二月に、クシュンナイの状況を報告し、処置を要請していた(維新史料綱要)。
 安政六年一月に、「今般御用所にて、北蝦夷地西海岸通漁業新規切開相成候」(余市町史 第一巻)と、イシカリ役所の触書がだされ、カラフトへの出稼人が募集されている。この出稼所の漁場選定のために、城六郎はこの年(安政六)に、はじめてカラフトに渡る。五月に提出された、「北地エ石狩出稼所番家取建、其外出張為致候義ニ付申上候書付」(北蝦夷地仕出之部御用留)には、「六郎以下罷越地所等按察」のことが述べられている。それによると、すでにクシュンナイイシカリ出稼所の番家を取建てることが伺い済となっているが、実地に調査したところ、同地より南のナヨロの方が適地である、と城六郎は具申している。以上の具申のもとになった、この年のクシュンナイ出張を伝える史料に、小山亘(倉山和多利)の記述書(荒井金助事蹟材料)がある。
 小山亘は武術教師係としてこの出張に参加していたが、その記述書によると城六郎の一行が出発したのは三月二十日で、構成員は以下の通りであった。
 
城六郎(御用調並出役) 野崎河内右衛門(御用係定役) 岡田万治郎(同心) 高橋靱負(在住) 大西文左衛門(改役所漁場取締) 小山亘(武術教師係) 田附清左衛門(佐(差)配人) 松田鎮助(路中御払方) 坂井信之助(通し(詞)役)
 一行は六月十日に西トンナイに着き、その後クシュンナイ場所に入り、ナヨロに「御本陣」を建築したという。そしてクシュンナイ川岸に「石狩御直場処」の杭をたて、七月十日に帰途につき、九月七日にイシカリに戻っている。


図-6 カラフトのイシカリ出張所 (◎印)