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西本願寺

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 以上の浄土宗善光寺と共に、サッポロに末寺建立の指示をうけたのが、西本願寺であった。従来、松前藩の時期には東本願寺が藩領内では独占的な勢力をもち、西本願寺派寺院の進出は許されていなかった。しかし、箱館奉行の設置とともに、西本願寺に対し布教が許されてくるのである。西本願寺では、早くも安政三年(一八五六)四月に、「浅草本願寺末大谷報恩寺、西蝦夷地へ一宇取建度願」が出されている(公務日記)。また、西本願寺の当時の執務所にあたる本願寺長御殿におかれた蝦夷地懸りの記録、『箱館蝦夷地え御出張所御取立一件』(以下、『取立一件』と略記)によると、十月には寺社奉行へ同様の願書を提出している。蝦夷地への寺院設立運動の中心となったのは、南部川内村の願乗寺で、この願乗寺の出張所(掛所)をオタルナイにおく計画をもっていた。しかし、箱館奉行の方では、「南部川内村願乗寺掛所、サツホロ山麓にて一万坪相渡し、場所詰より引渡」という申渡しが、安政四年九月四日になされた(公務日記)。
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写真-5 箱館蝦夷地江御出張所御取立一件(西本願寺蔵)

 『取立一件』には、イシカリに寺地調査にきた橋本伊左衛門の手紙が残されている。まず安政五年四月の手紙には、当時のサッポロの様子が以下のように述べられている。
サツホロ之儀ハ人家モ無之大ニ歎居リ候処、同処ハ蝦夷地中央四方平面之地ニテ地之利宜敷、亀田同様城下ニ可被致由ニテ、調役同下役同心等追々在住引越ニ相成、且諸国ヨリ男女小供ニ至迄引連レニ相成居□□□食用ニ至迄当今仕賄ニ相成、人民を植開作有之候由、依之松前住居場所□□向五軒へ諸品ニ不差支様出店被仰渡、追々繁 (ママ)之地ニ相成候由、就テハ何程ノ本堂御取建ニ相成候哉御尋ニ付、五間四面之由申答之処、土地引立之ためニ候得バテ九間四面ニも被致度沙汰在之当惑致、指当リ先夫を土台にいたし、追々取広ケ可申段断置候得ども、何れにも早々建ケ有之度旨ニ御座候。

 これによると、サッポロは在住や農民も移住し、開拓も進行し、出店もできる繁華の地になるので、「土地引立之ため」にここに寺院を建設する意図が、箱館奉行側にあったことがうかがわれる。本堂に関しては、橋本伊左衛門の方は四間四方を計画していたが、これに対しても九間四方を内意として伝え、早急の建立を求めていた。また伊左衛門は、場所請負人の村山伝治郎は東本願寺の門徒で、西本願寺には協力しない旨が伝えられ、建立に種々困難があることを報告している。
 このように、西本願寺側と箱館奉行の目論見も異なっているために、サッポロへの寺院建立にいたらず、西本願寺の当初のねらい通り、オタルナイに変更となった。西本願寺ではこのオタルナイ掛所を中心に道場を各地に設置していき、『箱館裁判所掛仮日記』によると、明治二年(一八六九)二月には、古平・岩内・石狩道場とともに、サッポロ道場も所在したという。このサッポロ道場は、「取立一件」で問題にされていたものの後身とみられるが、詳細は不明である。