荒井金助は安政四年六月に、イシカリ詰の調役に就任以降、種々様々な事蹟を残してきた。その中でも、第一にとりわけイシカリ改革の実行は、金助のおおきな事蹟といえる。もちろん、イシカリ改革の基本計画は、金助の就任以前にはある程度できてはいた。しかし、その計画をさらに具体化し、実際的な段どりを運び、改革の発表後は、その改革プランにそい具体策を展開してきたのは主として金助であった。その点で、金助とイシカリ改革は不可分な関係にあったといえよう。
さらには、イシカリ建府論の提唱と実践である。金助のイシカリ建府論に関しては第一〇章であつかうが、金助はこの構想をもとに、積極的にイシカリの町づくりと移民の奨励をおこない、また開拓の推進にあたっていた。金助自身も農民を招募し、シノロに荒井村をおこしている(第九章参照)。イシカリ建府論の提唱と実践は、金助自身の政策・構想というよりは、箱館奉行を中心とした〝世論〟が形成されており、金助の施策活動もその一環としてみる必要があるものの、困難なイシカリ改革の前夜に、イシカリ詰の調役として派遣されただけに、金助自身の能力と識見による部分も多かったはずである。
また、金助の子弟の多くもイシカリに関係をもっていた。まず金助の息子の好太郎は、イシカリ在住や学問教授所の御用書物出役となり、金助が開いた荒井村の農場経営にも関与していた。弟の蘭台は、文久元年頃にモウライの在住となり、後に好太郎と共に開拓使に出仕した。甥の井上斧太郎も、安政七年頃にイシカリ在住となり、イシカリの開拓に尽力する。
金助の長期のイシカリ詰も、文久三年(一八六三)九月の箱館沖ノ口係の転任で、終わりをむかえる。ちょうど、クシュンナイのイシカリ出稼所が廃止となったのと時を同じくしている。後任には樋野恵助が選ばれた。