以上のような、六回におよぶ強靭な精神と肉体に支えられた蝦夷地調査は、想像を絶するものであった。ところが安政六年十二月十二日に武四郎は「当春以来出瘡甚敷難渋仕候療養仕居候処、此頃逆上之症に相成候眼疾と相変し、是又療治仕候得共、未だ全快も不仕候間何卒御雇入御免相願上候間篤と養生仕度奉存候間、右御免の程奉願上候」(簡約松浦武四郎伝)と辞職を出願、それが同年十二月十九日に容認されている。この辞職は病というよりも、時事に感ずるところあっての行為という。
その後は江戸にあって蝦夷地に関するあまたの著述をなし、また他方で志士との交わりも見せている。この間文久二年(一八六二)正月には糟谷箱館奉行、同年十月には小出同奉行より、再出仕の誘いを受けるがともに断っている(前出)。その後維新政権成立後、一時箱館府(判事)、さらに開拓使(開拓判官)に仕官するが、これも明治三年三月には依願により官職・位階も返上し、以降は全き市井人として、明治二十一年二月十日七一歳をもって卒するまで、自適の生活を続けていた。
武四郎は驚嘆すべき踏査行を繰り広げながら、その傍ら詳細な覚書を記し続けていた。これらに基づきまた膨大な著作をまとめ残し、また上梓しているのである。蝦夷地に関して一五六巻におよぶ蝦夷日誌集、三〇巻の紀行集、その他建言集、調査報告書類、見聞記、雑纂、野帳、自伝類、それに二八枚の詳細きわまる東西蝦夷山川地理取調図を筆頭とする地図類、さらに異色の近世蝦夷人物誌など、その数ならびにその内容とも、刮目すべきものがある。特にアイヌの人たちの悲惨な状況を直視し、そこに追いやる和人の不法・不当性を剔出した眼識は、特筆すべきものといえよう。