次にカラフト班の調査をみよう。主任は須藤秀之助、それに佐波銀次郎、酒井周蔵と従者源吉が加わり、いずれも江戸居住者の四人。須藤は兼徳ともいい、江川太郎左衛門に砲術を学んだ蘭学派で、儒学者の嶋田と二次調査の主任を分けあった。大筒役にあって藩の兵制軍事調方を勤め、蝦夷地調査後は藩主の京都使行に供をし、さらに近習頭となる人。佐波は前年蝦夷地を一巡し、二次調査のメンバーとして再びイシカリを訪れた唯一の人。須藤と同じく砲術を学び、調査後は老中脇坂家に一時召出される。蝦夷地の知識をかわれてのことだろう。さらに藩の蘭学者手塚律蔵の門に入り、本格的に洋学の道にすすんだ。また、師手塚と『万国図志』を翻訳、蕃書調書、開成所を経て神奈川奉行所へ転属し訳官として活躍した。酒井は勝蔵ともいい、分限帳に一七俵二人扶持、藩の装束方、到来方、酒菓子方を兼ねると載る。
一行はオシャマンベでエトロフ班に別れ、クロマツナイ越して西蝦夷地オタスツに出、日本海岸を北上し五月二日オタルナイ泊、三日イシカリに到着した。翌日アツタへ向かいカラフトに渡ったのは五月十四日、閏五月を経て六月二十二日まで六七日間にわたってカラフトの調査をつづけた。帰路は日本海岸を南下し、七月二日アツタ泊、翌三日イシカリを三カ月ぶりで訪れ、イシカリ調査の後半が行われた。須藤らはここから千歳越して太平洋岸に出て、さらにクロマツナイ越で日本海岸スッツに至る。佐波は新しく開削中のオタルナイ山道を調査すべく単身イシカリから日本海岸を南下する。このため帰路須藤らはイシカリで一泊だったが、佐波は二泊し、七月五日オタルナイへ向かった。両者はスッツで合流し、江差、松前を経て箱館に八月二日着く。カラフト班の江戸帰着月日は明らかでないが、エトロフ班より早かったようである。
カラフト班の記録として、須藤は『唐太紀行』(一名北蝦夷地廻行書上)を残し、市立函館図書館所蔵『北蝦夷画帳』もおそらく彼の筆になるものであろう。一次調査が東西蝦夷地に主眼をおいたので、須藤の報文はカラフトのみを取り上げ、イシカリの記事はない。これを補うものに佐波の『北遊随草』(一名カラフト巡嶌記)があり、カラフトへの往路と帰路の二度にわたるイシカリの見聞を詳述している。前年の『協和私役』、二次の今村『蝦夷日記』と対照し読むと、この時イシカリ・サッポロが転換期にさしかかっており、あわただしい動きを示していた様子を知ることができよう。