まず巻一の歴史の中で、元禄元年(一六八八)徳川光圀(義公)が藩主のころイシカリへ派遣した快風丸のことを述べる(第三編第四章・第七章参照)。自藩がイシカリとかかわった事績をくわしくとり上げたのは当然だろう。さらに巻三の地理の項でイシカリ川を次のように紹介し、イシカリからユウフツにかけての平原が開拓されるならば、ここに国府を建て蝦夷地の控となるであろうと論じたのが注目される。
河以二石狩一為二第一一、戸梶(トカチ)次レ之、石狩河源甚遠、乗レ舟遡レ河九日、見下夷人住二河上一者上甚衆、左右平原茂林、人跡不レ通、隔二数里一見二大山一、河中時或流二大木一無数、標根皆備、蓋河源大風雨、岸崩漂出也、其達二河源一径路、北自二天潮(テシホ)一者、四時皆可レ行、東北自二門別一者、夏秋草盛則甚艱、東経二亜汗山下一者、猟夫或乗レ雪而至、平時則不レ能レ行也、自二石狩一遡二支骨沼一、稍経二旱路一便達二俋物川一、以至二東海一、地勢四通八達、若拓二其地一而用レ之、真可下以建二国府一控中夷地上也
さらに北島志巻三物産の項で鮭漁を紹介し、イシカリの塩鮭が大船一二隻で積み出されると述べている。
鱖魚生二於河海相交処一、七八月遡レ河而上、河水為レ之閉塞不レ流、夷人或網罟收レ之、或徒手捕レ之、猶レ拾二地芥一、甚レ之至二熊狗口銜獲一レ之、蓋不レ可二数計而算推一也、其曬乾者、儲レ之以充二常食一、其鬻二買諸国一者、以レ塩漬レ之、故経レ久不レ壊西別(ニシベツ)所レ産最為二絶品一、夷人一網収二四五千尾一、塩鱖之船、石狩川以二大舶十二隻一為レ額、其余諸川所レ出、蓋不レ能三殫二知其数一也、又有下漏網至二河上一自死者上曬乾食レ之、凡是二魚、島中以為二常食一
(明治三年彰考館刊本による)
この時期、水戸藩の識者はイシカリの鮭漁に着目し、開拓の必要を説き、蝦夷地の国府建設地としてイシカリを考えていたのである。そうした水戸藩のイシカリ観はどのようにして生まれたのであろうか。まず、イシカリ鮭漁への着眼は光圀の快風丸派遣に象徴されるように、早くからの伝統ともいえる経緯を持つから、この時期に初めて意識されたことではない。開拓論もまた斉昭の持論で、『北方未来考』を見るまでもなく、幕閣へ再三にわたって建言したところである。第二次幕府直轄期に在住制(第七章)が実現すると、斉昭は「家中の二三男等、百姓の二三男百人も申合願候て可然と我等は存候」(安政二年十月二十八日付豊田亮の書状に対する斉昭の返信)と前向きの姿勢を示しながらも、「此方(水戸藩)の人、開き候地に候はゝ、追て此方へ入候儀には不存候得共、此方領分に不相成中は、とこ迄も公辺の事」(同年十一月二十四日付斉昭書状)として、水戸藩からイシカリ開拓のため在住を送り込むようなことはしなかった。
それではイシカリの国府論はどうして生まれたのか。これに大きな影響を及ぼしたのは松浦武四郎でなかっただろうか。彼は『北島志』編集前に三度蝦夷地を廻り、すでに蝦夷通(つう)をもって知られていた。そこで編者は〝当今有用の人物〟と白羽の矢をたて、武四郎を「暫の内、此地(水戸)へ御頼被差置、蝦夷地風土人情等、私追々直談承合」(豊田亮の書状、年月日不詳、以上はいずれも『北島志編纂始末』所収)ことになり、武四郎もまた旅の記録である三航蝦夷日誌、蝦夷全図、後方羊蹄於路志等を水戸藩に贈呈した。『自筆松浦武四郎自伝』によると、それは嘉永六年八月六日のことで「今日、我が兼て編輯せし三航日誌三十五冊を平野正太郎[加藤木賞三事]持て中納言様[水戸]へ奉りける」とある。武四郎と水戸藩士の交流は嘉永元年ころすでにかなり深かったようであるから、彼の考えが北島志のイシカリ国府論に反映することは充分ありうるだろう。