徳川幕藩制国家の北方に位置する藩はどうだったのか。西南諸藩とは異なる視点から、当然蝦夷地に目を向けなければならなかった。
たとえば嘉永六年九月一日、カラフトのクシュンコタンにロシア兵が上陸した時の様子を盛岡藩の三戸代官所に勤める石井久左衛門の日記で見ることにしよう。上陸の報が松前藩庁に届いたのが九月十六日、それから一カ月もたたぬ十月十一日に「此節松前カラフトへ上陸、陣を張候処、松前より相詰候役人逃去候由に付、松前より二番立迄討手罷越候由」(万日記)と第一報を書き、すぐにも警固に出陣できるよう準備を始めた。こうした対応は弘前藩の町人にもうかがえる。青森の迴船問屋滝屋の日記嘉永六年十月二十九日の条に、松前藩主はカラフトへ向かう藩士に直々「出陣致候ても、妻子等心に懸ぬように、みれんの打死せぬように」(家内年表)申し渡したという噂を書きとめている。
東北諸藩にとって、北地の動きは直接自藩にかかわる関心事だったから、弘前藩は十月山田左四郎と早道の者を送り、西蝦夷地からカラフトの実状を探らせ、盛岡藩も内偵活動をすすめた。その風聞書によると、安政元年三月十五日から四月十一日までの収集情報として、「諸家より探索のもの数十人入込居候」(松前箱館雑記 一)という。仙台藩から上田長吉、長沼庄七、相馬連外四人、弘前藩から加藤准平、上山兵助、久保田藩(秋田)から上田吉三郎、そして鶴岡藩(庄内)とかかわりをもつ旗本仁賀保家から三森穀之助、三森多吉等が、箱館や西蝦夷地へ商人や船乗りと称して入り込み、内偵活動をつづけていると盛岡へ報告している。
このあと東北諸藩は蝦夷地警衛を幕府から命じられ、内偵は公儀の指示にもとづく本格的調査活動に変わった。箱館や蝦夷地に屋敷をかまえ陣屋を築き、そこに多くの藩士や町人を常駐させたから、もはや調査にとどまらず具体的施策が必要となり、さらに安政六年から分領が実施されるに及んで、東北諸藩の蝦夷地対策は新たな段階をむかえざるをえなかった。各藩によって思惑は異なったであろうが、その中から仙台藩を例として、イシカリ・サッポロの存在が知られていく様子をうかがうことにする。なお、西蝦夷地への渡航基地として重要な役割をはたした弘前藩と仙台藩では事情が大きく異なるので、本項のうしろに弘前藩について略述する。