文政六年(一八二三)玉虫伸茂の五男として生まれた左太夫は弘化三年(一八四六)江戸へ出奔、縁あって林大学頭の下僕になった。ここで学才を認められ、昌平校に出入りする人と交わり対外交渉に興味を持つ。のち江戸の藩邸にある学問所順造館跡に住んで、江戸に学ぶ藩の青年の世話をする一方、藩主の侍講大槻磐渓と交際を深めた。これが縁で在府中の箱館奉行堀利熙が箱館に赴く際、玉虫はその家人(近習)として随行を許された。脱藩中の身だったと思われるが、藩から内々の〝御用〟を仰せつかったのである。堀奉行は三〇人にのぼる従臣をともない、安政四年閏五月から四カ月半におよぶ東西北蝦夷地総廻浦を行うが、もちろん玉虫もこれに加わった。
玉虫は堀奉行らとともに二回イシカリ・サッポロに足を入れることになる。まず箱館からカラフトへ向かう途中、閏五月二十三日銭箱で一泊、二十四日ハッサムを調査しイシカリにいたり宿泊、六月一日まで一帯を調べ、二日アツタへ向かった。この間八日イシカリに滞在したわけで、それまでの調査がせいぜい一泊どまりであったのにくらべると、今回の廻浦がいかにイシカリ・サッポロを重視していたかわかる。総廻浦の重要な目的の一つがここにあった。さらに、カラフトからの帰途、太平洋岸を回りユウフツから千歳を経て再びイシカリ・サッポロの調査を重ねる。同年九月九日千歳を出立してハッサムに至り、十日銭箱泊、十一日トヨヒラ泊、十二日千歳に戻りユウフツを経て箱館へ帰る。
二度にわたるイシカリ・サッポロ調査で彼は特異な活動を行う。まず場所請負制下でアイヌがどのような状態におかれているか具体例をあげて堀奉行に上申した。現地詰幕吏の執務態度を含め、アイヌたちの「心ヲ失フニ至ル」(入北記)のをなげいてのこと。この行動が松浦武四郎の術策であったかもしれないが、時の流れを正しく見通した自信ある判断からだろう。なぜならば彼の勇断は直ちにアイヌへの鍬の給与となり、〝不宜場所第一〟と指弾されたイシカリの場所請負人廃止へ進展する端緒となるからである。
次にハッサムを中心に展開されようとしていた在住制への強い関心がある。春には着業まもない状況を視察、秋に再度その進捗状況をたしかめ、「僅四五ケ月ノ間ナレトモ、諸事目ヲ驚カス」(入北記)と喜ぶ反面、今後の成否に不安をいだいた。武士をまきこんだ幕府の農業試行は、仙台藩にとって他人事でなかっただろう。また石狩川の治水事業を具体的に構想した意義は大きい。ツイシカリ─エベツ方面の洪水防止と湿地改良のため千歳川へ排水路を掘り、イシカリ川の分水路を開削し築堤を施すことにより、この一帯が開墾されるだろうと予測、尋常のことではないが必ずこの計画は実行されるものと信じた。
もう一つ注目すべきは道路建設に払った関心の強さである。日本海岸と太平洋岸を結ぶ銭箱―ユウフツ内陸路の本格的建設にとりかかった年、春と秋の両度これを踏査し、その重要性を身をもって体験した。そしてハッサムとイシカリの連絡ルート、イシカリを中心とする海岸路を含めて、一層の改修整備の必要を訴える。建府の必要性は交通網建設と表裏の関係で本格的に課題化してくるのである。
安政期、仙台藩がすすめた蝦夷地調査には対外関係の急迫という前提条件があったが、一方、藩内の財政問題とのからみを無視することはできない。両条件を思想的に裏づけ支えたのは大槻磐渓の開国論であり水戸斉昭の攘夷論である(藩主伊達慶邦のもとに斉昭の娘が嫁ぐ)。一見相反するかの如き両論は、蝦夷地開国、大藩分領という方向でまったく矛盾しない思想であったが、幕府と藩とのかかわりにあっては、けっして協調できるものではない。仙台藩の蝦夷地調査はあくまでも幕政を維持しおしすすめようとする一環でこそあれ、体制をつき崩す意図を持つものではなかったのである。
それは玉虫がいだいたイシカリ・サッポロ観にもあらわれている。これは彼だけの独創ではない。あくまで箱館奉行のもとで進められた第二次直轄政策上に位置づくが、その政策のより望ましい方向を探り、効率的な推進を願い、そして仙台藩にとって有効な道はないかを手さぐりしつづけた結果といえる。玉虫はその後再びサッポロを見る機会を得なかったが、明治になって多くの仙台藩関係者が札幌とその周辺の建設に血のにじむ努力を惜しまなかったのは、ここが玉虫をはじめとする藩の先人が夢を託した土壌だったからだろう。