福山にて受負人が約束して、鮭積取の為め弁財船下り来る。其数五、六十艘なり(大なるは七、八百石より千石もありしと覚ゆ)。鮭は大抵其年の内に積行くなり。尤も大漁のときは積み終る能はずして残り、当所に囲ふことあり。又船に積むも風の為め行く能はずして、石狩川の内、又は小樽湾にて船の儘、囲ふことも稀にありたり。
(石狩場所 札幌市街 石狩町資料)
また、佐々木勝造は「石狩入津の船は、年々六十艘、多き年は九十艘に至る」と語ったが、亀谷丑太郎によると「越後より石狩に来りし舟は、平年四十艘なり。六十艘、九十艘と云ふは真にあらず」(いずれも石狩場所 札幌市街 石狩町資料)とのこと。イシカリ改革の年、安政五年の入津は四五艘と記録にある(市史一三四、一四一頁)。
これらの船の出港先(鮭の売払い地)は「秋田、庄内、越後表え積付、商内仕候」(沖口御役所より御達並に願書写)、すなわち日本海を南下する西廻り路の沿岸が多く、安政五年越後国出雲崎で塩鱒四〇万~五〇万本、鮭塩引二〇万本が、新潟では鮭塩引三〇万九一八一本、塩鱒一六万一三二七本が取引された(新潟県史 資料編七及び一〇)。蝦夷地を幕府が再び直轄し、江戸との結びつきを強める必要にせまられ、また「鱒鮭は、江戸新潟尤利有」(燼心餘赤)とみなされるようになると、太平洋を流通ルートとする東廻り船の重要度が増し、東蝦夷地からの直䑺とともに、江戸へ向かうイシカリ鮭の荷船が増加したのである。