銭箱を出発し、ホンナイ・マサラカマフの小川をこえ、オタルナイ・イシカリの境界であるホシオキ川をすぎると、在住のあるホシオキ(星置)である。当時、ここには永島玄造・中島彦左衛門・中川金之助・葛山幸三郎が入植していたが、湿地も多く地積が狭隘なため、みな二、三年後には移転している。
ホシオキより、トシリコマナイ(軽川)、サンダラツケ(三樽別川)、テイネニタツ・チラエウツ(追分川)などの諸河川を過ぎると追分である。追分の由来は、右は本道、左はハッサム在住地へ至る二叉(さ)路になっていたからである。武四郎はここで左行し、大屋文右衛門・大竹慎十郎・永田休蔵・弓気多内匠の在住地にいたる。また、ホンハツシヤフ(中の川)を渡ると、山岡精次郎・秋庭熊蔵の在住地があった。このあたりは、現在の発寒神社(西区発寒一一条三丁目)の周辺である。ここに隣接してアイヌの家が五軒(『丁巳日誌』では四軒)あった。武四郎は、ここの乙名(おとな)コモンタの家で昼食をとる。
写真-3 東西蝦夷山川地理取調図(部分)