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銭箱よりハッサムへ

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 武四郎は六月十七日に銭箱通行屋を出発する。この通行屋も一年余りにて、「座敷八坪程出来て、美々敷通行屋と成たり」とある。また、同じく武四郎の『西蝦夷日誌』には、この通行屋のことを旅籠(はたご)と呼び、屋内には屛風(びょうぶ)・襖(ふすま)も立てられ、「賤妓」が来ており、「開闢(かいびゃく)以来未だ和人の女を見ざりしもの、今日軒を並ぶる様になりしぞ、実に賢こけれ」と、この一年間の急変の様子を箱館奉行の政策の結果とみて、賛美している。
 銭箱を出発し、ホンナイ・マサラカマフの小川をこえ、オタルナイ・イシカリの境界であるホシオキ川をすぎると、在住のあるホシオキ(星置)である。当時、ここには永島玄造・中島彦左衛門中川金之助葛山幸三郎が入植していたが、湿地も多く地積が狭隘なため、みな二、三年後には移転している。
 ホシオキより、トシリコマナイ(軽川)、サンダラツケ(三樽別川)、テイネニタツ・チラエウツ(追分川)などの諸河川を過ぎると追分である。追分の由来は、右は本道、左はハッサム在住地へ至る二叉(さ)路になっていたからである。武四郎はここで左行し、大屋文右衛門大竹慎十郎・永田休蔵・弓気多内匠在住地にいたる。また、ホンハツシヤフ(中の川)を渡ると、山岡精次郎・秋庭熊蔵の在住地があった。このあたりは、現在の発寒神社(西区発寒一一条三丁目)の周辺である。ここに隣接してアイヌの家が五軒(『丁巳日誌』では四軒)あった。武四郎は、ここの乙名(おとな)コモンタの家で昼食をとる。

写真-3 東西蝦夷山川地理取調図(部分)