トヨヒラ通行屋は安政四年(一八五七)に、サッポロ越新道の開削とともに建設工事が着手された。しかし、新道も四年中に工事中途のままで中断されたように、通行屋も未完成のままであった。玉虫左太夫の『入北記』には、「併し仮家ニテ未だ普請ナラズ」、「未ダ仮小屋ニテ例ノ丸小屋同様ノ処ナリ」とされている。それでも堀利熙の一行は、「雨凌キニハ極上ナリ」と、ここで一泊していた。
トヨヒラ通行家がまだ普請中で完成していなかったことは、安政五年五月に阿部屋伝二郎から、イシカリ役所に出された次の伺からもわかる(村山家資料、新札幌市史 第六巻)。
トエヒラ御通行家御普請之儀、御受負中御受仕候テ木寄等夫々仕候。私儀此度出稼ニ被仰付候ニ付テハ、御普請之儀如何相心得可申哉、乍恐奉伺上候。
これによると建物は、「木寄等」の外部の普請はなしたが、内装などはまだ出来ていなかったのである。イシカリ役所では、この伺に対し「通行家之義取建ニ不及、為冥加取建候義ハ別段之事」と回答している。
翌五年四月二十九日に通過した村垣範正の『公務日記』には、「小屋三棟有、通行(家)建る積り」とあり、仮普請の小屋が三棟あったことがわかる。しかし、松浦武四郎の『新道日誌』には、「二ツの茅小屋を立有」と、二棟の建物であったという。二棟が正しいであろう。また、『新道日誌』によれば無人の状態であったようで、渡河に利用する船も丸木舟が係留されているだけで、舟守もまだいなかったようだ。
武四郎は、この年(安政五)九月十日の「札幌越新道申上書」(燼心餘赤)において、舟守に関し、「尤此処土人是迄居付の者差置船渡し申付、畑作幷川漁為致置度候」と述べている。これは豊平川の流れが速く、和船での渡河はむずかしいために、丸木舟の利用を考えたのであろう。また、畑作・川漁は宿泊者の食料にあてるためであろう。
トヨヒラの通行屋がいつ完成し、番人がおかれるようになったのか定かではない。しかし、翌安政六年中にはサッポロ越新道も完成したと思われるので、この頃までには番人もおかれ、通行屋も普請が終わったとみられる。