また山の方より和人弐人に、ハツシヤフのハレテレキ両人の者と、女の子一人と出来りけるが、其方等は何故に爰(ここ)え来りし哉と尋ねしに、当春貴人(ニシハ)が見附し温泉え、追々此頃は人も行候様成しまゝ、此和人等連行呉と云故、其案内致し行たりと申しぬ……
ハレテレキはハッサムのアイヌで(人別帳では、シノロのハンロクテ同居)、安政四年には足軽松田市太郎の上川調査の案内をしており、地理に詳しい人物であったようだ。このハレテレキが和人二人を案内して温泉に行っており、また「追々此頃は人も行候様成」と、湯治客があらわれ始めてきていたことを示している。
しかし温泉の利用にも、道路の開削が必要であった。武四郎もこのことをつぎのように指摘している(燼心餘赤)。
追々其後も湯治人等有之候由の処功験十分に相見え候得共、如何にも道筋無之候ては難渋仕候由にて繁昌仕兼候間、新道切開に相成候はゞトイビラより一日に早く参り候に宜敷候間、大新道御切開の足留りにも相成候哉に奉存候。尤川漁宜敷候間サツポロ土人一、二軒御差上せに相成候はゞ、至極の儀と是又奉存候。
ここで武四郎は、まず最近ふえた湯治客は道路がないために難渋しており、新道の必要性を説いている。また、アブタへの大新道が完成すれば、「足留り」の場所ともなり、サッポロのアイヌを一、二軒おいて湯守りなどに充てたらよいと建議している。
武四郎の温泉「発見」により、定山渓ルートがにわかに注目を集めるようになり、実際に道路の開削が試みられ、また定山渓の地名のもとになった美泉定山による温泉開発もおこなわれるようになる。