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運上屋

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 場所請負制下で場所経営のセンターとなるのが運上屋(所)で、漁場の諸務一般をはじめとして、宿泊・運送・通信などすべての業務がここでなされていた。イシカリの運上屋は、イシカリ場所が十三場所よりなり、それぞれに番屋がおかれていたためか、十三場所の元締(もとじめ)の意味で元小屋と呼ばれていた。

図-3 運上屋の図(東徼私筆より)


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写真-7 イシカリ元小家から武四郎宛の領収書
(蝦夷屛風より 三重県 松浦清氏蔵)

 運上屋は安政元年(一八五四)七月の洪水で流失し、翌二年に新築される(松浦武四郎 竹四郎廻浦日記)。梁八間半、桁二七間半という宏壮な建物であった。この建物の一部が宿泊用にもあてられ、運上屋通行屋とも称されていた。運上屋の建物は石狩川左岸の屈曲部(現在の石狩町弁天町)にあり、水害の恐れの多い所であった。そのためにイシカリ役所は対岸部(八幡町)に移転している。運上屋は安政四年(一八五七)春にも洪水にあったらしく、四月二十三日にイシカリ入りした牛丸謙三郎は、次のように書き残している(唐太久春古丹迄道中日記 函図)。
洪水ニ付通行家ハ番人壱人も無之、明家(あきや)ニテ私共ノ蝦夷持余ノ米ヲカギ、誠ニ野宿同様ノ事ニ御座候。

 このように不安定な位置にあったが、さらに非常に手狭でもあった。安政二年(一八五五)以降、東北諸藩が蝦夷地の警備につき、鶴岡・秋田藩が西海岸の担当になり、イシカリの通行も頻繁になってくる。多人数の通行の折に、運上(通行)屋での宿泊がまかないきれなくなるのである。この様子を、安政四年閏五月三日にイシカリ入りした長岡藩士は以下のように伝えている(罕有日記)。
今夕久保田(秋田)藩士上下三拾五、六人上り、幷東浦(繁蔵)氏父子も止宿にて大混雑の体なり(久保田藩士は番屋に止宿し、此家より膳部夜衣を送るといふ)。

 この夜は、村上藩士の一行も宿泊しており、確かに「大混雑」であったろうが、もともとは宿泊施設の狭隘さに原因していた。
 運上屋は、安政五年四月にイシカリ改革が実施され、場所請負制が廃止されるに及び本陣と改称され、ひき続き阿部屋が宿泊・運送・通信の業務にあたっていった。