阿部屋の経営下における、イシカリ場所のアイヌの実態を総括したとみてよいのが、松浦武四郎から村垣範正に提出された、「淡路守殿へ奉る書」(燼心餘赤)である。これは安政四年九月ころに書かれたもので、蝦夷地全体のアイヌ問題を総括したものであるが、その中でイシカリ場所についてふれる点が特に多い。これをまとめると、人口減少の主要原因には次の四点があった。
(一)出産の低下
①懐妊者の使役による流産。
②番人の妻妾女性の堕胎。
③独身男性の増加と出産の減少。
(二)死病者の増加
①老人・乳児の病餓死。
②疱瘡の流行。
③番人などによる性病の伝染。
④番人の責苦による自殺、身体の障害。
⑤過酷な労働による衰弱。
⑥病者の不治療。
(三)凍餓死の増加
①山入り禁止による食料不足。
②介抱家族の不在。
(四)他場所への逃亡。
武四郎は以上の四点につき、詳細に具体例をあげて報告し奉行の善処をもとめ、イシカリ場所については、「先以見及候処、諸場所共昨年より公料に成候て、追々振合も相直り候得共、当所はますます厳敷相成由土人共一同申居候。実に聊(いささかも)帰服之念無之、只無理すくめに致させ有之事に御座候」と述べ、第二次直轄以降も請負人のアイヌに対する「振合」が、ますます悪化の一途をたどっていることを指摘している。
幕府による第二次直轄あるいはイシカリ改革は、その目的のひとつに以上のような人口減少、アイヌ社会の疲弊と和人の横暴に歯止めをかけ、種々の保護・「撫育」政策をとることにあった。しかしそれにもかかわらず、イシカリアイヌが前述のごとき減少を続けたことは、それらの諸政策がきわめて不充分なものであったことを示している。またイシカリ改革による請負制の廃止も、幕府などによる新たな搾取と収奪をもたらすのみで、アイヌ社会にとり何ら本質的な改革になっていなかったこともあらわしている。さらに、改革後の漁場解放による和人の増加は、アイヌの労働の場や居住地をうばい圧迫することになり、窮乏と離散に追いこむ状況を現出した。