石狩十三場所のうち、現在の札幌市域に存在したのは、ハッサム・上サッポロ・下サッポロ・シノロ・ナイホの五カ所であった。これらの場所は、漁場の創設場所であり、位置も河川流路の変転により一定してはいなかった。また必ずしも、コタンの存在とは合致していない。
安政三年の人別帳には、先の五カ所にいずれも人別の記載がみられる。しかし、実際に居住ないし家があるのは少なかった。松浦武四郎は『丁巳日誌』で、各場所における実態と人名帳の記載の相違を克明に描いている。いまそれをもとに、安政四年における札幌の旧場所・コタンをみてみよう。
下サッポロは、人別帳に五軒二六人の記載があるも、当時は一軒もなかった。下サッポロの乙名はクウチンコレであったが、上川メム(現旭川市)の出身で、安政三年にチュクベツに移ったという。一時的にせよクウチンコレは、下サッポロに居住したようだ。彼は安政四年閏五月に、箱館奉行堀利熙の一行がハッサムの在住を巡検した折、一行の従者を舟に乗せ、ハッサム川を下っている。小使モリキツは、この下サッポロの生まれであったが、いまは家もなく浜に下げられていた。人別帳に記載のあるうち、四軒までが上川メムの出身ないし居住者で、いずれもイシカリ場所の支配人などにより、ここに便宜的に編付されたのであった。これは下サッポロ場所が漁場として衰亡したにもかかわらず、それを外面的にかくし場所の存続をつくろうために、虚偽の編付がおこなわれたからである。下サッポロには、寛政四年(一七九二)に三〇軒、七三人、文化七年(一八一〇)に一九四人という記録もある。これらの数値も実態とみなしがたい点もあるが、しかし、かつては相当数の居住をみたコタンであった可能性が高い。なお下サッポロの位置は、伏籠川の下流域で、フシコサッホロとも呼ばれていた。