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トシキランの死

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 モニヲマには、翌五年二月にも不幸がまっていた。今度はトシキランの死に見舞われる。松浦武四郎の『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』(以下『戊午日誌』と略記)によると、武四郎は中山峠をこえて、二月十九日にトイヒラのモニヲマの家を訪ねる。すると叔母トシキラン──『戊午日誌』は姉とする──は病床についており、病状も悪化していた。武四郎は薬と食糧を与えて去る。家には看病のためか、妹チシルイがいた。チシルイはハッサムのアイクシテの妻であった。その夜、武四郎はアイクシテのもとに泊まる。
 武四郎はイシカリに赴き、早速トシキランのことをモニヲマに伝えた。
 一度故郷え見舞に遣し呉と頻に願ひしが、会所は中々免(ゆ)るさゞりしによって、兄アイクシテを余(武四郎)荒井某(金助)え願、帰郷を謀遣したるに、帰郷するや三日計(ばかり)を過て姉は死したりしとかや、モニヲマは姉の死期にも逢ふことを得ずして至(り)しと、夏に我が到りし時大に愁訴致したるも宜(むべ)なりけり。

 モニヲマ会所(運上屋)の許可が得られず、見舞いにも行けなかったのであった。そこで武四郎は義弟アイクシテを、調役荒井金助のもとに遣わし、モニヲマの帰郷をとりはからったのである。しかし、モニヲマの帰郷はすでに遅く、三日前にトシキランは死亡していた。モニヲマはイメクシユラにつぎ、トシキランの死期もみとることができなかった。家族思いがつよいモニヲマだけに、「愁訴」は武四郎の胸にうつものがあっただろう。
 モニヲマはこのような不幸が重なり、耐えきれずよそへ出奔したのか、慶応元年の人別帳に名前がみえない。
 モニヲマの家が所在した上サッポロは、豊平川の左岸で、後のトヨヒラ通行家の対岸部に位置していた。『戊午日誌』には三、四軒の住居があったという。