武四郎はイシカリに赴き、早速トシキランのことをモニヲマに伝えた。
一度故郷え見舞に遣し呉と頻に願ひしが、会所は中々免(ゆ)るさゞりしによって、兄アイクシテを余(武四郎)荒井某(金助)え願、帰郷を謀遣したるに、帰郷するや三日計(ばかり)を過て姉は死したりしとかや、モニヲマは姉の死期にも逢ふことを得ずして至(り)しと、夏に我が到りし時大に愁訴致したるも宜(むべ)なりけり。
モニヲマは会所(運上屋)の許可が得られず、見舞いにも行けなかったのであった。そこで武四郎は義弟アイクシテを、調役並荒井金助のもとに遣わし、モニヲマの帰郷をとりはからったのである。しかし、モニヲマの帰郷はすでに遅く、三日前にトシキランは死亡していた。モニヲマはイメクシユラにつぎ、トシキランの死期もみとることができなかった。家族思いがつよいモニヲマだけに、「愁訴」は武四郎の胸にうつものがあっただろう。
モニヲマはこのような不幸が重なり、耐えきれずよそへ出奔したのか、慶応元年の人別帳に名前がみえない。
モニヲマの家が所在した上サッポロは、豊平川の左岸で、後のトヨヒラ通行家の対岸部に位置していた。『戊午日誌』には三、四軒の住居があったという。