これまで述べてきたように在住が農民に開拓させた土地は、在住の在地している間は「被下切」となる制度となっており、もちろんイシカリ在住についてもこれが適用されたが、多少変則とみられる事例があるのでここに紹介し、この面から在住の実態にふれてみたい。
まずホシオキに入地した中川金之助、中嶋彦左衛門についてであるが、『公務日記』安政五年四月二十九日の項に次の一文がある。
この年の八月に、村垣はホシオキで中川・中嶋らの在住宅を見廻っており、彼らがこの時点で「小鳥川」(コトニ川支流ケネシベツ川)に移住したわけではない。また稲作を試みているのは早山清太郎であることは確実であるが、早山は第九章第二節で述べるように中川・中嶋の招募した農民ではない。これからすれば、この開発場というのは、すでにある農民・農地も、在住の管轄下においたものといえよう。なぜこのような措置がとられたのかは不明であるが、慶応の文書で在住に対し、農民人別、農地反別の報告を督促する文言があり、農民について在住がこれらを把握することになっていたと考えられる(大友亀太郎文書 御用控 慶応四年)。おそらく早山などは、このような事情から中川らの人別に組み入れられ、その地を開発場と称したとみられる。またこの際、最寄りのハッサム場所の管轄とせず、オタルナイとの境界にあるホシオキの開発場とした理由も明確でないが、ホシオキは平坦地ではなく役宅三軒のみという記述もあり(後藤蔵吉 蝦夷日誌)、その関係かもしれない。
もう一つの事例は、やはり中川金之助に関するものである。中川はのち箱館に去るが(文久二年と伝えられる)、大友亀太郎文書中の『御用控 慶応三年』の中で「書面中川金之助取開候石狩持場内字コトニ場所開墾地之義ニ付……金之助義も箱館在住被仰渡候已来遠隔世話行届兼」とあって、本来であれば在地に限って「被下切」となるものが箱館に去ったあとも、引き続き中川の知行地扱いとなっていることを示している。中川は「御用ニ付在住替被仰渡候もの」(同前)なので、とくにこのような処理がなされたものと思われる。
なお、この土地・農民は、大友の担当する御手作場に組み入れられるが、その際、土地については「是迄取開候入費も有之候ニ付、壱反分ニ金弐両弐分宛金之助エ被下度と之趣ハ、先ニ見合も有之、御用ニ付在住替被仰渡候ものニテも、取開候開墾地為御手当壱反分(ママ)ニ付金弐分宛被下候ニ付」(同前)として、これまでと同様一反歩につき弐分、壱町二反分金六両の支出が奉行の決裁を得た。これによれば、少なくとも「御用ニ付在住替」となった者については、反当二分で官が買い上げる処置がとられたといえる。
このほか、前述のように慶応二年十月に退去した山岡精次郎は、その際同人の開いた場所と共に御手作場を差し出したとされている(大友亀太郎文書 御用控 慶応四年)。おそらく、この御手作場とは、米の扶助などなんらかの形で官の資金が投入されたもので、それを山岡が管理していたということであろう。これについては、ハッサム村を事例として、第九章第一節で記述する。