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在住の兼務

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 先にも少しふれたように、在住は、在住本来の業務を行うだけでなく、イシカリ役所関係の種々の業務を兼ねる場合が少なくなかった。
 兼務も恒常的なものと、比較的臨時的なものとに分けられる。恒常的なものとしては、まず中村兼太郎の定役代があげられよう。任命年は不明であるが、中村の場合は在住というより、定役代という行政官の活動が主体だったと思われる。またオタルナイ川の永嶋玄造、大屋文左衛門の伐木改役も、かなり専務的な要素が多かったと思われる。さらに、石狩町田中実氏所蔵史料(イシカリ役所文書の断簡と思われる)には「永昌丸 諸雑用諸払 目録」と書かれた表紙に松井八右衛門の署名、印のあるもの(表紙のみ)、および「松井八右衛門乗来ル幸徳丸船売上」と標題の付された文書の断片があり、これからすれば松井は流通・海運関係の業務を担当したように思われる。大友亀太郎も蝦夷地開墾掛、すなわち御手作場の責任者としての業務がもっぱらであった。
 このほか一応永続的ではあるが、これらとは異なり、副次的な業務として命じられたと思われるものがある。例としては、安政四年六月に、鈴木顕輔が学問教授方を命じられており(公務日記)、また文久元年四月に軽部伝一郎は槍術教授を命じられ、翌文久二年十月軽部が岩内在住を命じられた後も、元治元年に至るまで継続して務めている(遠当守都御用所留)。さらに『公務日記』では安政四年八月に「一イシカリ在住弓気多源之丞当所ニ罷在、鉄炮打立方近藤庫三郎手伝可致旨、季五郎申渡」とある。弓気多を近藤の弟子とすることは、その数日前に決定しており、また「当所」は箱館と思われるので、これによれば弓気多は一定期間箱館にいっていたということになる。
 これらの外、業務としては臨時的ではあるが、重要なのは、鮭漁に関するものである。すなわちイシカリ改革の行われた安政五年の八月頃、鮭漁に関する場所担当役人が定められたが、このうちホリカモイ御掛として金子八十八郎・永嶋玄造、ワッカオイ御掛として中村兼太郎天野伝左衛門が任じられている(五十嵐勝右衛門文書 〔石狩〕御用留一)。これは『荒井金助逸伝』中の「石狩漁場を廃し直捌御手場所となし、創業着手、漁場取締以下数十人を置き、各漁場エ在住士及部属を派出せしむ」とあるのに照応する。これについては他にも事例があるが、後述する。
 さらにこれと関連して前記五十嵐勝右衛門文書中「永嶋玄造様ホリカモイワツカオイ、シユツフ漁場ケ所御廻り被成候間、其旨相心得被成候」云々とあり、永嶋はホリカモイ御掛に止まらない業務を持っていたようである。